上岡八幡宮西参道、明治の街道〔3897〕2013/12/16
2013年12月16日(月)もうちょっとで満月
月例カレンダーを見ると、明日が満月。夜明け前、西の空には、まん丸お月様が美しゅうございます。月曜日の朝。
ここはいつもの野市、上岡八幡宮さん。夜明け前の清冽な空気。静かな境内。拝殿前の石段を下ったところから、八幡様のある上岡山の左手を撮影してみました。この方向には嘗て西参道があり、その向こうで物部川を渡るようになっちょりました。渡し船は、戦後まであったそうです。
上岡八幡宮さんについては、ビッシリ書いてきましたが、ちくとおさらい。
八幡様ですき、御祭神はもちろん応神天皇と神功皇后。八幡様の元締めは、こないだ初めてお参りしてきた、大分の宇佐八幡宮ですき、八幡様としての元をただせば宇佐に行きつくがやと思います。天正十六年(1588年)の地検帳に「上岡八幡御宮床」とあるので、戦国期には、すでに八幡様として存在したことがわかります。
こないだ、筆山でお墓を確認できて感動した、藩政期の史家、奥宮正明さんが編纂した土佐国蠧簡集(とさのくにとかんしゅう)によりますれば、貞和五年(1349年)の年号の鰐口があったそうですき、中世にも、社殿は存在しちょりました。その頃には武家の神様として、八幡信仰は全国に広がっちょったので、もう、八幡様やったかも知れません。
しかし、この、上岡山。そんな八幡信仰が流行る、そのずっと前から、地域の守り神が鎮座まします山として、あり続けてきたと思われます。それは、この山の姿を見れば、わかります。洪水や津波の際には人々を助けた命山。石船伝説が残る上岡山は、太古の昔から、神の山でした。
手元に、明治20年頃に参謀本部陸軍部によって作成された20万分の1の地図があります。我が国で、一般にも使用できるように初めて作成された正確な測量地図。物資調達、輸送や、宿泊などの用途があったので、村落と宿駅市街のマークが区別され、人口によってマークの大きさが違うという便利なもの。これに、当時の街道が書き込まれちょります。
それを見ると、明治20年頃には、高知市から安芸、室戸方面へ向かう主要街道は2つ。
1つ目は、山田橋を渡って北上、比島、布師田、国分川を南に渡って中島、吉田、小籠、という江戸時代の街道を東へ進み、後免から立田、野市という、旧国道55号線のルートを通って、古川、そして赤岡というルート。
2つ目は、農人町から若松町、下の新地を抜けて青柳橋を渡り、五台山の南を通って稲生、里改田から前浜、久枝、物部川河口の渡しを渡って吉原、そして古川で上のルートと合流。
その主要街道に挟まれて、介良から東へ下るルートも見えます。
今の介良の中心部から、介良川沿いに北上、南国バイパスに近いルートを東進して、篠原で右折して南下、また左折して東進し、田村を抜けて物部で物部川を渡り、吉原の東で2つ目のルートに合流、という感じ。このルートの、物部川の渡しが、この写真の向こう側ではないかと考える訳です。上岡八幡宮の西参道。
街道は、この左下の山裾を抜けて東進しちょったがやないか、と、想像する訳です。
いや、それがどうした、という話を長々と書いてしまいました。朝っぱらから。
この、昔は参道であった痕跡からまん丸お月様を眺め、タイムスリップしてしまいました。