変遷する道路〔3880〕2013/11/29
2013年11月29日(金)晴れ
おうの冷やい。この冬一番の冷え込み。会社に着いてみると、車のフロントガラスが、この冬初めてカチバリツイちょりました。そんな冷やいなか、昨夜は走って帰っちょったので、今朝は自転車出勤。
軍手をはめるばあぢゃあ、全然効果がなく、手先足先が痺れるばあシビコオリました。冬ですね〜。
ここは今朝、自転車で通りかかった介良。昔、長岡郡介良村やった頃の村役場は、もうちょっと向こうにありました。月明かりの下に、小富士山と鉢伏山が見えます。あの麓に朝峯神社さんがあり、そして介良冠者、源希義さんの墓所があります。古くから荘園が成立した、介良。太古の昔は、浦戸湾に流れ込む古物部川の河口があった介良。
この道は、街道と呼ばれるほどでは無うても、高知の城下から東へ向かう幹線路のひとつとして機能した道。以前にも書きましたが、明治の頃、土電の電車を東向けて延伸するに際し、現在の電車通りのルートにするか、この、介良を通ってごめんへ向かうルートにするかで議論があったと言います。それっぱあ、幹線でもあった道。
電車通りができて、国道55号線になり、この道は静かになりました。
さて。
昨日、北山越えの、土佐北街道のことを書きました。享保3年(1718年)以降の参勤交代ルート。それでは、それ以前はどのルートであったか。
昨日書いた、お城を出て東進、山田橋から北東へ行って布師田、そして中島までは、同じルート。そっから、舟入川を渡って野田へ。南国市の野田。で、東進し、物部川を渡って深淵。野市の深淵。今の、野市の市街地より、ちょっと北に位置します。そこに物部川の渡しがありました。
深淵からは南東へ。古川村、現在吉川町古川で、香宗川を渡って商都赤岡。
赤岡からは、海岸、砂浜沿いの道を東進。手結湊から手結山を越えて安芸郡。ずうっと東進し、奈半利川を渡ってから、北に進路を変えて野根山越えへ。
北川村の岩佐番所を通り、野根へ下りました。野根から海岸の道を北東へ進むと甲浦番所。で、藩主は、そこで船に乗って本州へ渡って行った、ということです。
これがいわゆる土佐東街道。
もちろん、この写真の道も、こんなには整備されちょらんにしても、東西を結んじょったでしょう。これをずうっとずうっと東進すると、物部川で、かつて渡しがあった所に行き当たりますき。
現在の南国市の海岸部、前浜から久枝は、東西に「下街道」と呼ばれる道が通り。久枝で物部川の渡しを渡って吉原へとつながっちょりました。その下街道は、城下から五台山、稲生、里改田、前浜、久枝、吉原ときて、古川で東街道と合流しちょった訳です。
時代時代の交通事情、盛衰、変遷によって、道路も随分と変わっていきますね〜。
今、東部自動車道が整備されよりまして、介良の東、潮見台の東にジャンクション。その関係でしょうか、この介良の道も拡張工事が急ピッチで行われよります。この右手、三角コーンが立てられちゅう辺りは、こないだまで家でした。