追手前小学校跡地、埋蔵文化財〔3881〕2013/11/30
2013年11月30日(土)晴れ!
今日で11月もおしまい。いよいよ師走、そして新しい年へと向かいます。良いお天気。
今日は、土佐女子中・高等学校の、新体育館、講堂落成式典と祝賀会がありまして、街中におります。
式典をやったのは、竣工間もない巨大な体育館。以前のドーム型の面影を残すデザインで、なかなか親しみが持てます。今まであった体育館、あれができたときのことを覚えちょります。そして、まだできたばっかしの体育館で、吹奏楽部のコンサートをやったがを観に行ったがが、ついこないだのよう。それが、もう建て替えですきんね〜。時が経つのは速い速い。
時の流れが速いといえば、ここは、追手前小学校が、この3月まであった場所。すっかり取り壊しも終わり、今、埋蔵文化財の発掘調査中。それも今年でおしまいでしょうか。今日は、旧追手前小学校の関係者のみを対象にした現地説明会。土佐女子の祝賀会を抜けて、ちくと寄っちょりました。
期待しちょった中世の遺構は、結局でてきませんでした。残念。しかし、藩政期のものは、ホントにたくさん出土。ここは地下水の位置が高いので、木製のものが、水に浸かった状態で、消滅せずに出土したがも朗報。
ここにあったお屋敷は、藩政期初期、追手筋に面してつくられたもの。旧追手前小学校敷地の東半分は山内さんの一族の山内さん、西半分は、かの、高知城の普請奉行をつとめた百々越前さん一族に与えられた広大な屋敷。こうやって見てみるととにかく広い。
城下町形成時、街がどうやってつくられていったのかが想像できて楽しい遺跡。今回の発掘で目を惹いたのは、竹でつくられた上水道の管。当初、井戸ではなく、水道で屋敷のお水をまかないよったにかありません。井戸には塩が出よったがでしょうか。しかし、その後、上水道のメンテナンスも大変で、技術も進歩した井戸に変わっちょります。
小生が興味深かったがはここ。藩政期初期、百々家と山内家の境界部分。南北に、幅が5mくらいでしょうか。その壁面を見ると、下部の50cmくらいが粘土質。どうやら、水が溜っちょりました。
つまりですね、家と家の間には、クリークのようなものがあったと。
今回の発掘で、両方の敷地から、広い人工池の遺構が出土しちょります。大きな庭と、その中にしつらえられた池。池にも、水を引き込んじょりました。
江戸の街と違い、高知の城下町には、利用できる山の水はありません。江ノ口川と鏡川の間では、この追手筋が一番高い稜線やったでしょう。が、どこも、大差なく低い地盤やったので、縦横に水路が引かれちょったがでしょう。ここにクリークがあったとしたら、城下の他の屋敷の間にも、ひょっとしたら縦横に水路があったがかも知れません。そこに浮かび上がってくる姿は、水都。
そう。高知の城下町は、美しい水の都であったかも知れませんね〜、と妄想が暴走します。
今次の発掘では、建物が建つ予定ではない西側部分は対象外。そこの開発計画が決まり、発掘が行われる日を待つしかありません。
この北側、追手筋に面した方は、発掘予定なし。まあ、小学校の建物があった場所でもありますき、既に遺構は破壊されちゅうかも知れません。
しかし、藩政期の屋敷の作り方から言うて、北側に居住空間の大きな建物があったことでしょう。また、藩政期を通じて盛り土により平坦に均されてきたこの界隈ですが、元々一番高かったのは追手筋付近。
お城に近い、新資料館予定地からは14世紀、中世の人工水路などの遺構が出ちょりますき、未発掘の、もうちょっと北側の高かった場所を掘り返したら、中世、大高坂時代のものが出て来るかも知れません。
ともあれ、追手前小学校跡地。もう、図書館になってしまうこの場所。ここにあった数百年の営みの跡は、間もなく、建物の下に埋もれてしまいます。