七ツ淵神社と祭礼の時代〔3877〕2013/11/26
2013年11月26日(火)晴れ!
昨日の午前中は大荒れのお天気でしたが回復、今朝は嘘のような良いお天気。いつもの上岡八幡宮さんの境内には、夥しい杉の枝や葉っぱが散乱しちょりました。
さて。一昨日、七ツ淵神社さんのことを書きました。で、秦史談会発行の機関誌「秦史談」平成14年9月号に、秦史談お世話役の松本紀郎さんが、「七ツ淵あれこれ」と題して、詳しゅうに書いてくれちゅうがを見つけました。色んな文献にあたっておられますので、ご紹介しましょう。
まず、参詣道。一昨日駆け上がったのは嘉助道。小生子供の頃、父親に連れられて通ったのもその道。七ツ淵と市内をつなぐ、一番の近道。
これは、明治27~28年頃、土佐山村の和田嘉八(通称嘉助)さんが、独力で、高知へ至る産業道を開削して嘉助道と呼ばれるようになったがに始まるそうです。で、他の通行人もそれを利用するようになったものの、途中から近道を通るようになり、それがボーロク峠を通る道で、これも嘉助道と呼ばれ、いつしかメインルートになっていった、ということにかありません。
それまでは、谷をひとつ挟んで西側の椎野道がメインルートやったのが、嘉助道の方が近い、ということになったがでしょう。
でですね、こないだ小生も書いた、毎月の祭礼のことも、詳しゅうに説明してくれちょります。
旧暦の毎月12日から13日にかけて。朝から夜中、そして夜明けまで、夜通し、参詣人の途切れることがないくらいの様相であったと言います。一番賑やかであった昭和初期、小生の父親も、それを目撃しちょりますね。
その夜は嘉助道に電燈が連なって、町から見ると光の帯がキレイやったそうです。数千人の参詣客。毎月。片道2時間の山道。すごい風景ですよね、これは。
その山道に、何軒もの露店が出て、賑やかであった七ツ淵神社さんの祭礼。
で、七ツ淵から秦小学校まで通うた子供達の話。
多いときは、二十数名の子供達が集団登校しよったそうです。そりゃあそうですね、ちんまい子がひっとりでは、流石に無理があったでしょうき。で、学校では、風呂を沸かして待ちよったそうです。
帰りは、授業が早うに終わった下級生は、坂の登り口の集合場所で待機、全員が揃うがを待って、帰ったということ。小学校に入学する年齢が近づくと、その子に荷物を背負わせて上り下りさせ、練習をしよったそうですき、大変。
学校とPTAの要望により、七ツ淵にスクールバスが運行され始めたのが昭和39年。高知市で初めての無料パスが発給されたそうです。それにしても昭和39年。そんな最近まで、あの山道を子供達は歩いて通いよったがでしょうか。すごい。
なんとなく、土佐山の小学校の方が近そうな気がしますが、地図を見てみると、やはり、秦小学校の方が近そう。しかし椎野峠でも標高330mはありますき、その登り下りが大変ですな、まっこと。
写真は、夕方、筆山から眺めた高知市と北山。北山の連山をご覧下さい。手前の連山。右手の山頂部、少し白く見える上が正蓮寺のゴルフ場。そっから左へ、尖った山の左のへっこんだ部分がボーロク峠。そのしゅっと左が椎野峠。
往時は、毎1度、夜になると、あのボーロク峠から麓に灯りが連なっちょった訳です。人々の信仰というものは、たいしたものです。数千人が参拝した、ということは、参拝者の皆さんも、結構楽しみにしちょったということでもあります。そんな楽しみがあった時代。今からは想像もできない時代ではありますが、ちょっと、羨ましい時代でもあります。