夜明けの高知港〔3876〕2013/11/25
2013年11月25日(月)時化模様
今朝、会社に着いた4時半頃は、まだ、静かな雨でした。風もなく、シトシトと降る雨。しかし、それから天気は荒れ始め、夜明け頃には時化模様。今日午前中は、風が強い雷雨になる、という予報ですね。昨日の良いお天気からは想像もしちょらんかった時化の朝。
今日は桟橋通でグッスリと用事があるので、ここ、高知港に寄ってみました。浦戸湾の中にある高知港。この岸壁は、昔、東京や名古屋、鹿児島、那智勝浦にもつながっちょった大型フェリー「さんふらわあ」が停泊しよった埠頭。今は、海上保安庁の船とか、貨物船が横付けする港。
対岸に灯り。太平洋セメント土佐事務所。2010年までは、太平洋セメント土佐工場でしたが、今はセメント生産を中止し、土佐事務所という名称になっちょります。1998年までは、日本セメントやったので、高知の皆さんには日本セメントという名称の方が馴染みが深いですな。
この風景。小生が子供の頃と、全然変わりません。当時、年に一度、港まつりというのをやりゆう期間があり、それに合わせて、この岸壁から日本セメントの工場の写生をしたことがあります。その時に書いた工場の風景は、今とほとんど変わらん風景でした。
浦戸湾は、室町の昔より港として栄え、往時の外国の地図に、その名がちゃんとでてくる港でした。明治になって、蒸気船が大阪や東京と行き来するようになり、文字通り高知の表玄関として発展。
しかし、大型船を横付けできる岸壁がなかったので、湾内に停泊した大型船から、はしけで、ヒトや荷物を運びよりました。
明治30年頃、潮江地区の土地を埋め立てて岸壁にし、浮き桟橋で乗り降り積み降ろしができるようになったそうです。それは、今の、土電桟橋線の終点、桟橋5丁目界隈にかありません。そこには「さんばし公園」という、住民憩いの公園まで整備されちょったそうです。
明治37年に開通した土電桟橋線は、その桟橋を利用するお客さんを、市内から運ぶために引かれた訳です。もちろん、物資の輸送も担うたのは言うまでもありません。
その後、昭和初期になって、大型船横付けの岸壁が完成。
広谷喜十郎先生の論文によりますれば、昭和初期当時の、大阪〜高知の運賃は、一等が10円80銭、二等が7円20銭、三等が3円60銭で、高知を午後4時に出発して、大阪には翌朝7時半着やったそうです。なるほど。大卒初任給が35円くらいでしょうか。まあまあ高いですな、船賃。
大阪高知特急フェリーは、2005年まで就航しちょりました。何度乗ったことでしょう。便利でした。あの、大阪高知特急フェリーのコマーシャル、覚えちょりますか?たしかこんな台詞。
「高知と大阪を、毎夜9時20分にせえのおで出発、朝7時頃、はやあっちぢゃあ。大阪高知特急フェリー。しょう、のうがエイがちがう。」
細かい所は違うちゅうかも知れませんが、発着の時間はそんな感じやったと思います。戦前の汽船と比べたら、だいぶ速いですな。しかも、安かった。
2等は床にごろ寝で、ちくとのうが悪いので、よく使いよったのが特2等とかいうやつ。これやと、狭いながらもベットで寝れるし、風呂も使える。しょう、のうが良かったです。ぐっすり寝れて、翌朝はすっきり仕事ができました。
そんなことを思い出す、桟橋の朝。