雨の中の谷干城像〔3858〕2013/11/07
2013年11月7日(木)小雨ですたい
そんな訳で今朝は熊本。
昨日、京都から高知へモンて来まして、またまたお昼の汽車に乗ってやってきました。熊本。
ここは夜明け前の熊本城近く。時間がなかったので、走る用意をよう持って来ちょらんかったですし、朝一でまたまたまたまた高知へイナんといかんかったので、ホテルから熊本市電に乗る途中、撮影してきました。
熊本城と言えば加藤清正公ですが、やはり我々高知県人にとっては谷干城さんでしょう。
谷干城さんは、天保8年、窪川生まれ。こないだご紹介した前浜、伊都多神社さんで、庄屋さんの騒動があった年ですな。幕末には維新の志士として活躍。龍馬暗殺の際、真っ先に現場に駆けつけた人物としても有名。その時谷干城さん、満で30歳。良い年代です。
戊辰戦争で活躍した後は、軍人として出世しました。そして明治10年。
西南戦争が勃発し、当初は西郷軍がどんどんと攻め立てる。で、その中、政府陸軍の、九州地域の総本部、熊本鎮台司令長官として過酷な籠城戦を戦うたのはご存知の通り。52日間の籠城を、優れた指導力で守り抜き、政府軍反攻のきっかけをつくって功労者となりました。
そんな訳で、ここ、熊本城に、谷将軍の銅像があるのであります。高知にもない、立派な谷干城像。
この像、10年前の2003年10月27日にもご紹介しちょりますな。
さて。
谷干城さんがすごいのは、実は、そっからの人生やと思うちょります。
明治14年に陸軍をやめたのは、新しい陸軍が、戦死将兵の遺体を乱暴に扱うたき、などとも言われますが、たぶん、陸軍を自分の思うようにしたかった山県有朋に疎まれた、というのがホントの理由やと思います。
その後政治家になって、農商務大臣をやったりしますが、またまた首脳部と喧嘩して辞任。
このいごっそうほど、日本の国民のことを思い、その方向性がキチンとしちょった人物はおらんと思うがです。
軍人で、最初は対外強硬路線を支持したりしましたが、政治家として生きて行く中で視野が広くなり、時代の空気に流されて行く世相と政治に断固として意見を言う、数少ない貴重な人物となったことは、もっともっと評価されてしかるべし。調子に乗ることをこじゃんと嫌うた、ホントの意味での良い土佐人。
貴族院議員として、言うべきことを言います。キチンと。日清戦争に勝った際、国際社会との関係を重視して、講和条件に過度の要求をしてはならない、と力説。調子に乗った政府と、それを煽る世論。空気。そんな中で、ホントの日本の将来を考え、言うべきを言う。これが矜持というものやないでしょうか。
国際社会での地位を向上し、誇りを持てる国家として、一人前になるべきだ、と、日露戦争に邁進した国家、世論、空気。そういった中で、そんなことをすると国際社会の中で孤立し、アジア諸国に嫌われ、国家として良くないことになる、と訴え続けた谷干城さん。決して時代の空気にながされることを良しとしない。
以前にも書きましたが、そんな老将軍を、若い将校たちは、「考え方が古い」「国際社会がわかっていない」と蔑んだそうです。
結果。
ホントに国際社会がわかってなかったのは誰なのかがわかった時は、もう、遅かった、ニッポン。
一見心地良さげな空気に流されず、将来どうなるのかを正確にイメージし、やるべきことをやる、やるべきでないことをやらない、矜持。
雨に濡れる谷干城像は、そんなことを教えてくれます。