城八幡〔3851〕2013/10/31
2013年10月31日(木)快晴!
こないだうち、南国市岩村界隈の、津野親忠さんを祀る津野神社さんや神奈地祇神社さん、そして福船の川原神社さんなどをご紹介しました。とにかく、岩村界隈は、そういった、神社やお寺、祠の多い地区で、古くからの土地であることは明らか。
で、神奈地祇神社さんと川原神社さんの中間点くらいに、福田八幡宮さんという八幡様の森がある、ということも書きました。
実はそこは、重要拠点。
八幡様というのは基本的に戦いの神様とされます。で、かつてそこにお城や砦があったという場合、その場所に八幡様が祀られちゅうケースが非常に多いのはご承知の通り。いわゆる城八幡。
で、その福田八幡宮様も、実は典型的な城八幡なのでありました。
写真は、今朝、夜明けを迎える福田八幡宮。向こうに三宝山、そして朝日。
ここには、戦国期、岩村城とか岩村土居城とか呼ばれるお城の詰があったそうです。いや、戦国期よりももっと前からにかありません。このにっこりでも何回か引用した「佐伯経貞軍忠状」、いわゆる佐伯文書によりますれば、この城は、南北朝の戦乱期に北朝方の軍勢によって焼き払われた、とあります。佐伯文書については、これからホットな論争があるのでしょうか、ないのでしょうか。興味深い佐伯文書ですが、それはともかく。
ここに本拠を置いたのは誰なのか、諸説あって定まっちょらず。ここは、かつて、東西の交通の要衝。ですき、支配者が時代によって変遷したことも大いに考えられまする。
交通の要衝、と言うのは、長宗我部地検帳によると、このしゅっと東に「舟渡」というホノギ名が出て来るき。物部川は、このしゅっと東を流れ、そこに、野市の深渕とを結ぶ渡し舟が往来しよった訳です。
こないだ、源頼朝の実弟、源希義さんが、南国市の年越山で平家方に討たれた、という話を書きましたが、希義さんが合流したかった夜須七郎行家さんは、野市から、この東の渡しを渡って西進してくる予定やった訳です。そんな、交通の要衝であった岩村郷の福田地区。
googleマップの航空写真で見てみますと、この福田神社がお城の詰であったこともわかります。八幡様は、詰の西南に位置するそうで、航空写真で、往時の様子が妄想できます。なるほど、という感じで。
こっから南へ行くと堀之内。もう、その名前で、お城に関連する地域であったことはしゅっとわかりますな。ちなみに、この、八幡様界隈のホノギには、古城、城内、城東、城南とかが残っちゅうそうです。お城の痕跡が、これほども地名に痕跡として現存しちゅう土地も珍しいかも知れません。
堀之内から南へ行くと立田。立田神社が鎮座ましまし、立田城址があります。ここの戦国期の領主は割合にハッキリしちょって、立田甚左衛門さん。長宗我部氏に仕えました。ちっかいので、ここ、岩村城も長宗我部氏に属したがでしょうか。
立田神社から西へ行くと立田土居城。
そこは、何と、菅原道真公左遷の際、道真公嫡男の高視さんが土佐守に左遷されるのと一緒にやって来た徳弘さんが城主。戦国期、山田氏配下となり、その後長宗我部配下。
たぶん、立田城も、ここ岩村城も、この界隈一帯、山田氏の配下から長宗我部配下になっていったがでしょう。
立田城址にも、立田土居城址にも、そしてここ、岩村城址にも、城八幡が残ります。兵(つわもの)どもの、夢の跡。