参道脇の笠木とムカデ〔3823〕2013/10/03
2013年10月3日(木)晴れ!
エイ感じに晴れちょります。日中は30℃と暑く、朝晩は涼しい、そんな秋の日が続く、高知県地方。ここは今朝の野市、上岡八幡宮さん。
ここは、物部川河口に広がる扇状地の、段丘の端っこ。この境内から南側は、数メートル下がった河口の平野。段丘上の境内には、過去、津波は押し寄せたでしょうか。安政の南海地震では無事でした。たぶん、宝永の南海地震でも無事。宝永の際は、恐らく、この境内の下のところまでは押し寄せたと思われます。古いお宮さんは、そんな場所に建つことが多いのであります。
そこに見える、参道入り口の鳥居。柱に刻まれちゅう文字を転載しますと、「嘉永四年歳在辛亥三月吉日」
嘉永4年3月は、西暦で言えば1851年。いよいよ幕末、風雲急を告げてくる時期。ペリーがやって来たのはその翌々年。そして、安政南海地震はその翌年。この鳥居が立てられて3年後、安政南海地震が、ここ、土佐を襲いました。
この鳥居は、その揺れにも耐え、ビクともせずに、ここに屹立しちょったと思われます。しかし。
その安政南海地震から91年後の、米軍の爆撃には耐えれませんでした。物部川の対岸に海軍高知航空隊の飛行場と基地があったので、米軍の重要攻撃目標になったがはご承知の通り。太平洋から飛んで来たグラマンの編隊は、一旦香長平野上空を北上し、Uターンして攻撃を仕掛けてきたと言います。
その際、ここ上岡も、爆撃されました。
上岡山には数十メートルの壕が掘られ、防御の拠点ともなっちょりました。それを知っちょったのかどうなのか、米軍は、この八幡様周辺にも爆撃を加えたのでありました。
拝殿や本殿は、なんとか無事やったにかありません。しかし。参道の鳥居は無残。
ここから段丘の下に下り、南東に延びる田んぼの中の参道。その先に立っちょった鳥居は、現在も、爆撃で破壊されたままの状態で、折れた脚だけが残っちょります。上岡山の南側、物部川の渡しから参拝してきた旧参道の鳥居や狛犬も、当時のまま、破壊された状態で残ります。そしてここ。
いや、地元の方に確認した訳ぢゃあないので、間違うちゅうかも知れませんが、この、参道入り口の鳥居も、爆撃被害を今に残すものやと思います。
鳥居の一番上の笠木、島木と、その下の貫の部分、よく見ると色が違います。新しい石材でできちょります。そして。写真手前、参道の隅っこに置かれた石。これは、間違いなく、昔はあの鳥居のパーツであった笠木。
類推するに、グラマンの爆撃で、この鳥居も破壊されたのでありましょう。上に書いたように、他の破壊された鳥居や狛犬はそのままにされましたが、この、参道入り口の重要な鳥居だけは、キチンと修理、再建されたがやと思います。南海地震にも耐えた鳥居は、戦争には耐えれんかった、という訳です。
地面に置かれた笠木の、こちら側の面をご覧下さい。大きなムカデ。近寄っても動かない。動じない。おかしいねや、と思うて、もっと近寄って見てみたら、一心不乱に朝食中でした。なるほど。
地震がきても津波がきても、戦争で破壊されても、大自然の営みは、悠久の時間の中でつづいていくのでありました。