中世、河口、ラグーン、都市の妄想〔3793〕2013/09/03
2013年9月3日(火)晴れてきました
結構降りました。もう、水は大丈夫なくらい降ったでしょうか。なんとなく、野山の緑が生き返ってきたような気がします。
今朝は、雲はまだ多いですけんど、お日様も顔を出しました。早朝。爽やかな風が吹き抜けます。ここは高知空港の滑走路沿い。
国道55号線の、田村、歩道橋のある信号を南進すると、空港滑走路の下をくぐり抜けるトンネルがあります。そのトンネルに入らず、側道を進んで滑走路に突き当たる手前に、こんもりと盛り上がった人工の小山。ポケットパークと名付けられた小さい公園。小山の上からは、空港が見晴らせるようになっちょります。
そこから、東の方向を撮影したのがこの写真。小生の頭上に細い細いお月様。右手の明るいところに飛行機が並んじょります。
このポケパの北、トンネル入り口北側に、細川氏の守護代屋敷の痕跡、城八幡が鎮座ましましちゅうがはご存知ですよね。この界隈の広大なスペースに、室町時代、土佐国の守護代であった細川氏の屋敷がありまして、土佐の政治の中心となっちょった、という話は、何度も書いてきました。
当時、この東側を、物部川の本流が流れよったとも言います。が、ここをまっすぐ南へいくと、前浜の砂丘に突き当たってしまいます。
さて。
当時、河口部分にはラグーンがあったとも言われます。潟湖(せきこ)。大きな川の河口近くにラグーンがあり、そこが港になって、「都市」のようなものが形成される、という話は、網野義彦さんの論文にしょっちゅうでてきます。
例えば、青森の十三湊と十三湖。例えば奥能登、町野川河口の時国家などの話。
そして、そういった場所には、権力から独立した、無縁、楽、といった世界があり、活気ある文化をつくりあげちょったという、いわゆる網野史観が有名。
先日、久々に網野先生の本を読みよりまして、中世、特に日本海側で、河口、ラグーン、都市、という組み合わせがたくさんあった、という記述を読んで、ここもそうやったがやないろうか、と妄想するようになった訳です。
瀬戸内海を大内氏が牛耳り、明や、南海との貿易を独占しょうとしよりました。細川氏は、土佐を支配下に置き、大内氏勢力圏を通らない、独自の貿易体系によって利権を構築しよった節がありますよね。
その中継港として、河口、ラグーンがあったこの場所に目を付け、守護代屋敷も、国府ではなく、ここに置いたがやないろうか、という妄想。
古代から、日本は、海上、水上交通がかなり重視され、利用されてきた国である、という網野説。律令制が導入された頃、中央集権の中国のやり方が模倣され、都からつながる街道や地方の道路を整備した、という話は、こないだも書きました。それは石で舗装され、広い幅をもった直線道路。ローマや古代中国の、中央集権的国家が効率的につくりあげたシステムを、日本に取り入れた訳です。
その例が、土佐にもあった訳です。
土佐の、その高速道路のような官道も、10世紀頃には廃れた、という話。やはり、日本は、水上、海上交通を中心とし、陸の農業を中心とする文化と、海を中心とする文化の両方が綯い交ぜになった国であった訳です。貴族、武士と農民だけが存在したようなイメージではなく、港、浦には都市が形成され、商業活動と芸能が盛んに行われておったという網野史観は、かなり、正しいと思います。
で、この風景の南側、ラグーン沿いにも、そういった機能があったとすれば楽しいですよね。田村遺跡からは、中世の環濠集落がでてきちょります。しかし、ここにあったのは、それだけではないような気がします。妄想ですが。