饅頭屋長次郎の生まれた「大里屋」〔378〕2004/04/28
2004年4月28日(水)曇り後晴れ
今朝は高知へモンちょります。
早朝から、鏡川を遡行して上町界隈をたつくりました。このにっこりひまわりでも、維新の志士で坂本龍馬の盟友近藤長次郎の事は何度か取り上げました。今朝はその生家の跡地から、長次郎のことをもう少し詳しくお伝えしましょう。
藩政期末期、この写真の場所に「大里屋(おおりや)」という餅菓子屋さんがありました。お城下水通町です。ここの息子長次郎は、店を手伝いつつ学問や剣道に励みます。
坂本龍馬の家は、そこの信号の所を右へ曲がって50mくらい行ったところなので、小さい頃から一緒に遊んだようです。年齢は龍馬が2つ上。学問好きの叔父「門田兼五郎」が、安政の大地震で焼け出された知識人で画家の「河田小龍」をこの近くの空家に斡旋して住まわせたので、龍馬や長次郎がその国際的知識を学ぶことができた話は以前もしましたよね。
その後土佐でも色んな人物に学問を学び、武術を学んだ末に上京、更に研鑽を積み、勝海舟に入門しました。この頃にはその俊才の名は有名になっちょりまして、たくさんの藩から召し抱えたいとの申し出が勝海舟のところに寄せられたため、土佐藩は慌てて名字帯刀を許し、ここで武士となったのであります。
龍馬のもとで薩長同盟に奔走、長州のためにユニオン号購入に尽力したりして、大活躍します。龍馬は薩長同盟の顔ですが、長次郎はその実務者として能力を発揮したのですね。
そして慶応2年、密かに英国渡航を企てたことが亀山社中の仲間に知れ、29才の若さで自刃したのでありました。一代の俊才、近藤長次郎の明治政府での活躍を見てみたかったですね。
この写真の近くに、最近、高知市立「龍馬の生まれたまち記念館」がOPENしました。ここには一次資料はほとんど無いのですが、2点だけひまわり太郎の目を引く資料がありました。一つは長次郎の饅頭屋さんが使っていた饅頭を並べる箱の一部。もう一つは、長次郎が妻のお徳に出した思いやりたっぷりの直筆手紙。とても美しい、味のある字と文章が感動的でした。