夏草の中の戦争〔3717〕2013/06/19
2013年6月19日(水)曇り
蒸せます。雨はまだ降りません。台風は、南に逸れて欲しいところです。
この季節になると、太平洋戦争の話が、時折ニュースで流れたりします。昭和20年の今日、沖縄本島最南端の岬で、ひめゆり学徒隊の多くの女学生、先生が犠牲になりました。沖縄戦が終わると、次は本土決戦、ということは一般市民にもわかっちょりましたので、緊張が高まりよった時期。
米軍は当然太平洋側から上陸してくるので、日本の太平洋岸には、防衛線が引かれ、兵力を配置してそれに備えました。その規模はかなり大きく、高知も例外ではない。第11師団司令部が介良の鉢伏山に置かれ、あちこちに軍事施設が構築されよった時期。近年の調査で、高知の海側の小山などには、夥しい壕が掘られちょったことがわかってきちょります。もちろん防空壕も多いですが、小山に、長いトンネルが掘られたりしちゅうので、ちょっとした地下砦みたいになっちゅう場所も、かなり多い。例えば、のいち動物公園の界隈、例えば高須山、例えば田辺島、例えば筆山要法寺の裏、例えば天王の西の池ノ内、などなど。そして、いつもの野市、上岡八幡宮さんの山もそう。もう、至る所に、そんなトンネルが掘られ、日本軍は高知で本気で戦争をしょうとしよったことを伺わせます。
ここは高知空港の東。物部川の土手の下。このようなトーチカが残ります。グラマンなどの米軍機は、太平洋からやってきて一旦北上、上岡などを含む北の方から南に降下してきながら機銃掃射やロケット弾攻撃をしかけてきたそうです。もちろん、現高知空港の場所にあった海軍航空隊飛行場が標的。
そこで訓練をつんだ20歳にもならないような若者達が、神風特攻隊として散華していった話は、以前にも書きました。
この海軍航空隊飛行場に、米軍の初めての本格的攻撃があったのは、昭和20年3月19日。午前7時半、10時、12時半の3回にわたり、それぞれ50機程のグラマンが、何度も何度も攻撃を繰り返してきた、とされます。
上岡方面から降下してくるグラマンを迎撃するのは、物部川の岸にしつらえられた機銃陣地、トーチカ。そっから30mmの機銃で対空射撃をしたと言います。
この写真のトーチカは、今から68年前のその日も使われたでしょうか。この中で機銃を構えた兵が、機銃掃射やロケット弾の雨の中、迎撃をしよりました。
トーチカの痕跡は、今も、夏草に覆われながら、静かにたたずみます。
高知航空隊から、練習機白菊に搭乗して鹿児島に移動、沖縄方面に特攻していった部隊は、「菊水部隊白菊隊」と呼ばれました。
68年前、昭和20年のちょうど今頃。
5月24日、5月25日、5月27日、6月21日、6月25日の特攻で、52名の若者が、南の海に散っていきました。
ここに、そんな戦争があったことを伝えるものは、もう、少なくなりました。貴重な戦争遺跡として、このトーチカは、このまま残されていってくれるでしょうか。夏草生い茂る中のトーチカ。せめて、説明板のひとつくらいも欲しいところです。
夏草や 兵どもが 夢の跡