市商の痕跡、戦争の痕跡〔3716〕2013/06/18
2013年6月18日(火)薄曇り
今朝はちくと涼しい朝。昨日よりはだいぶ涼しい。しかしなかなか雨は降りませんな。
さて。ひまわり乳業は、今年で創業91年となる訳ですが、91年前の大正11年に秦泉寺で牛を飼い始めた創業者は、田野から出てきて高知商業学校に通い、卒業後銀行員を経て、創業に至っちょります。
高知商業学校を卒業したのは大正3年。県内唯一の商業教育機関。卒業した当時は、かの、鈴木商店がどんどんと大きゅうなりよった時代。高知出身の大番頭、金子直吉大活躍。三井三菱を凌ぐ、と言われるまで成長した鈴木商店の立役者は金子直吉さん。で、その人材登用は、かなりダイナミックであったと言われますが、中でも「土佐派」と呼ばれた個性的な面々は、高知商業学校の出身。後に、神戸高商出身の「高商派」と勢力を二分した、高知商業出身の人々。
ですきに、ひまわり乳業創業者の同窓には、そんな、国際舞台で活躍したヒトも多かったようです。そんな中、病気療養中の父が居たせいもあり、高知に残って銀行員になったようです。
そんな高知商業学校は、元々、高知市高等小学校併設の実業補修学校を母体として、明治31年に帯屋町で「高知市簡易商業学校」として創立。翌年「高知商業学校」となり、明治44年に追手筋に移転して、上記のような隆盛を極めます。ひまわり乳業創業者は、追手筋の商業学校の通うた訳ですね。現在の、追手前高校の東、タワーパーキングとかがある一角。そして。
昭和4年に、潮江帯田(桟橋通2丁目)に移転しました。現在の県民体育館のあるところ。当時、高知工業学校(現高知工業高校)は、北与力町、今、県立大学永国寺キャンパスがあるところにありました。昭和17年、桟橋通2丁目の今の場所に移転してきて、これで、商業学校と工業学校が、電車通りを挟んで向かい合うようになたのでありました。
高知工業学校は、そのまま、高知県立高知工業高校になって現在に至っちゅう訳ですが、商業学校は高知市立高知商業高校になり、昭和45年、現在の塚ノ原へ移転して、商業と工業が向かい合う風景は、見れんなりました。
さて。高知商業は、市立の商業高校ですき、市商(ししょう)と呼ばれ親しまれよりますので、これからは市商と書きますが、その市商があった桟橋は今、どんなになっちゅうでしょうか。
県立体育館と、高知市青年センター、市民図書館潮江分館などになっちょります。その、青年センターの東に運動場がありまして、その東側の塀。今朝の写真は、その塀。
この塀は、昭和4年から45年までの41年間、ここに存在した市商の塀なのであります。なかなか趣きがあります。そして、こないだ、県内の戦争遺跡を調査して詳しい方にご教示頂いたのですが、その塀に、戦争中の空襲で落とされた爆弾の、その破片で破損した跡がある、とのこと。今朝、その塀をじっくりと見てきましたが、どうやらこの穴がそうではないでしょうか。この辺りに3ヶ所ほど、こんな穴があります。
ここは、市商の痕跡であり、そして、戦争の痕跡でもあります。