土佐代表、田村遺跡も実はすごい〔3715〕2013/06/17
2013年6月17日(月)晴れ!
今朝は高知。昨日の夜、車でモンてきました。高知も暑うございます。
昨日、鳥取の妻木晩田遺跡をご紹介しましたき、今朝は高知を代表する弥生遺跡、田村遺跡に寄ってきました。空港のしゅっとネキですき、会社からも近い場所。弥生草創期から終末期までの長い長い間、ヒトが暮らした痕跡がはっきりと残る田村遺跡。昨日の妻木晩田遺跡は1世紀頃の成立ですき、ここの方がずっと古い。そして、規模も、負けちゃあせんくらいの弥生遺跡ですが、全国的に見ると知られちゃあせん、田村遺跡。
ここは、物部川の自然堤防上。この界隈を、物部川は網の目のように流れて太平洋へ流れ込みよりましたので、その水を利用しての稲作が中心であったようです。弥生中期から後期にかけての最盛期、数千人が暮らしよったとも言われる田村。今より多いかも知れません。
高知空港拡張工事の際に行われた発掘調査で、かなりのことがわかって来ました。夥しい竪穴式住居跡も、滑走路の下に埋め戻されました。しかし。
こっから西へ行った香長中学校の工事で、最大級の竪穴式住居跡が発見されたり、こっから北へ行った高知東自動車道の工事現場でたくさんの竪穴式住居跡や様々な遺構がみつかったり。とにかく、掘れば出てくる弥生の遺跡。
もし、その全容が解明されたら、弥生期の日本列島のイメージが変わってくるかも知れません。南四国にも有力な国家があったとか。
面白いのは、とっと離れた日本海側の弥生遺跡でも、九州の弥生遺跡でも、ここ、南国市田村でも、その住居のありようはかなり似いちゅう、ということ。集落の成り立ちも。
例えば竪穴式住居。
同じようなつくり。
近年、各所の遺跡から、どういった構造の建物であったか、かなりわかってきましたので、同じような痕跡が残る遺跡には、同じような建物が立っちょったでしょうき、ここに、どんな風景が広がっちょったのか、想像できるようになってきました。木で骨組みが頑丈に組まれ、土を塗り込んだ藁屋根。これは、ひょっとしたら想像以上に快適やったかも知れません。夏、涼しく冬あったかい。
昨日の写真は、妻木晩田遺跡の洞ノ原地区。妻木晩田では一番古い時代に属しますが、環濠に囲まれ、お墓や宗教施設のようなものがあるエリア。この遺跡で環濠に囲まれちゅうのはここだけ。その環濠も、後の時代には埋められ、一般の住居が立つようになってきたという説明でした。
田村にも、環濠があります。その内部には住居はなく、土坑などが多い。ひょっとしたら、宗教的なエリアやったがでしょうか。
こんなに離れちゅうのに、そんな部分まで似いちゅうがは、不思議。同じ宗教観を持っちょったことが想像できます。
だいたいからして、竪穴式住居の構造はそんなに簡単ではない。どっかで見て来たからと言うて、しゅっと建てれる訳がない。建てた経験のあるヒトが居らんと無理でしょう。と、いうことは、当時は、かなりの人的交流やヒトの移動が行われよったということになります。想像するよりかなり活発で流動的な社会。情報が伝わる速さも、ひょっとしたらかなり速かった。どこにどんな有力者が居って、どんな勢力範囲で、どこと抗争しゆう、みたいな情報は、全国、少なくとも西日本中を駆け巡りよったがかも知れませんな。う〜ん、朝っぱらから妄想が暴走。
ここ、田村遺跡で有名ながは、写真にもあるように田んぼの足跡。これは珍しい。願わくば、竪穴式住居跡をそのまま保存展示したり、竪穴式住居の復元したものを建てたり、一辺が2〜4mであったという当時の田んぼの風景を復元し、足跡を復元展示したり、この田村遺跡のすごさを体感できるようなものにならんでしょうか。
楽しそうで、教育的効果は高いでしょうが、ヒトは、そんなに集まらんでしょうかねえ。