謎の三角地帯〔3710〕2013/06/12
2013年6月12日(水)晴れたり曇ったり
沖に台風が居るせいでしょうか。梅雨だというのにこの青空。昨夜は結構蒸せました。台風がメッソなことないことを祈ります。
ここは堀詰。中央に植え込みのある広い南北道路から西向いて撮影してみました。右手の建物がトーエイパーキングさん。ここには、戦前まで、堀詰座がありました。昭和30年代に区画整理されるまで、この南北の道路はこんなに広いものではありませんでした。元々は、広い幅の堀川が、道路の東を流れよりました。そこが埋め立てられて、家が建ったりしちょったのを、今一度広くして現在のような道路にした訳です。戦後の都市計画の賜物。
戦後の都市計画で変わった風景が、この写真。向こうに、中島町の東西道路が見えます。その通りは、戦前は、向こうから、つまり西からまっすぐこちらに延びてきて、そしてこの道路をきて、今、撮影しゆうこの場所で突き当たりになっちょった訳です。
同じように、トップワンの北、かるぽーとの南の道は、そこからまっすぐ西へ延び、電車通りを渡って西進、この南北道路の所で突き当たりになっちょりました。つまり、中島町の通りを西から東へ行き抜ける為には、ここで、Z字型に曲がっていかんといかんかった訳です。
戦後すぐに描かれた、復興の都市計画の図面があります。市役所の清水真澄さん達が中心となり、仮庁舎が置かれた第六小学校で、不眠不休で描かれた復興の都市計画。電車通りを大幅に拡幅し、来るべきモータリゼーションの時代を先取りした都市計画でした。将来、社会は、街は、どうなるか、ということを深く見通し、考え抜かれた都市計画。いつまでも、今の社会の延長線上に発展していく、とする現在の都市計画とは一線を画します。
それはともかく。その戦後復興の計画に、この中島町の通りを、ここでまっすぐに東西に通すことが書かれちょりました。で、現在のように、西から来ると、その向こうで軽く右にカーブし、そのまま東へと行けるようになった訳です。
何を言いたいかと申しますと、それで、ここに、謎の三角地帯が形勢された、ということ。
この、けつねうどんさんや珍々亭さんがある一角。何故か三角形に取り残されたような一角。何故、ここにこんな一角があるのか。それを調べよって、上記のような経緯がわかったという訳です。元々、この南側には道路がなかったのでありますね。まあ、どうぢゃあちカマンような話ですが。
そうそう、その、三角地帯の西端に銭湯がありましたよね。小生、中学生までを、その向こうの南与力町で過ごしちょります。家(工場)の風呂が使えんかったりした場合、よく、近所の銭湯へ行ったもんです。ここへも来ましたが、帯屋町の方へよく行った記憶が残ります。ひろめ市場から帯屋町へ入ってしゅっとの南側。今、パチンコ屋さんになっちゅう辺りでしょうか。もう、銭湯も街中から姿を消してしまいましたねえ。