介良の町も、これから風景が変わっていきます〔3709〕2013/06/11
2013年6月11日(火)曇っちょります
昨日の夜、南国の会社から走って帰りました。走ってみますと、今年の気温がどんなもんかよくわかります。涼しい。
梅雨時。雨が降りやあせん日に夕方走ると、結構暑うてシンドうなるもんです。が、昨日なんぞは快適。こじゃんと走りやすうございました。たぶん、例年よりだいぶ気温は低いがやないですろうか。
写真は今朝、出勤途中の介良。この季節、自転車で出勤したら汗ビショになるもんですが、そうでもない。快適にシャコシャコしてきました。
この道は介良通り。電車通りの、介良通り電停からまっすぐ東へくると、ここ。そしてこの界隈が介良の中心部。左手に農協が見えます。
ここの道路も、格調されるがにかありません。いつの間にか、道路沿い、南側の家々が、こんな感じで取り壊されていきよります。と、いうことは、この写真も貴重なアーカイブ。この道路の広さを、よく覚えちょきましょう。
しかしあれですね、こういった道路工事は、粛々と進んでいきます。ここが拡張するのは、たぶん、この東に高知東自動車道のインターかなにかができるきでしょう。交通量が増えるのを見越しての拡張。
ただ、考えるに、これからの日本は、特に高知は、劇的な人口減少社会に突入していく訳で、都市計画も人口減少を見越したものに切り替えていく必要はあります。そんなこと、たぶん、行政の都市計画担当者の頭にはなく、今までの延長線上に、これからの都市計画があると思われます。これは大きな問題。
世の中、社会の変遷に適合させて、考え方を変化させていかんと、大きな落とし穴に落ちたりするき、気を付けましょう。
ところで介良。
10世紀頃に編纂された和名抄には「気良郷」と記載されちゅう、古い古い土地。以前にも書きましたが、有史以前には、古物部川の河口が、この辺にあったとされます。物部川は、今よりずっと西を流れ、この界隈まで広がっちょった浦戸湾に流れ込みよったにかありません。
古代から中世にかけて、ここには介良荘という荘園があり、農地もあったようです。農業用水としては、谷水や、池から引いた水が中心。そして藩政期になり、野中兼山さんが物部川に山田堰を築いてから、風景が変わりました。
山田堰から引かれた灌漑用水は、この香長平野を縦横に潤しちょります。ここ介良も、その恩恵に預かりました。
特に、こっから東へ行った、潮見台の北側の介良野、その東の伊達野と呼ばれる地域は、その灌漑用水を使い、豊かな農地へと変貌していったとされちょります。介良にも野中兼山先生の足跡が。やはり、すごいですね、野中さん。
そう言えば野中さん、今朝の高知新聞にも載っちょりました。
昨日は「時の記念日」。土佐山田に鎮座まします時光石(とっこいし)宮で、兼ね山さんの功績をしのぶ式典があったそうです。野中兼山さんの終焉の地のしゅっと横。このお宮さんのご祭神は、野中兼山さんが使用した日時計の台座。それで時間を正確に計り、ほら貝で告知して、作業を効率よくおこなった、という訳ですな。以前、一度ご紹介しました。
そのお宮さんの前にも、山田堰から引かれた灌漑用水が滔々と流れ、先人の知恵と努力の有り難さを伝えてくれます。