陽暉楼の痕跡は残ちゅうのか〔3707〕2013/06/09
2013年6月9日(日)小雨模様
梅雨らしいお天気。小雨がパラつく高知市内。
昨日は、午後3時から得月楼さんで宴会。高知田野会という、高知市近辺在住の、田野町出身者による年に1回の集まり。田野からは町長議長を始めとして、役場の幹部や商工会の方々などが来高、懇親を深めるのであります。
ひまわり太郎も、田野会の一員。とは言え、祖父の代に田野から高知へ出てきちょりますき、田野に住んだことは無いのですが、縁あって、ずっと昔から参加させてもらいよります。なかなかに楽しい集まり。
で、その得月楼。高知では、老舗中の老舗、得月楼。昔は、こんなに簡単に宴会をさせてもらえるような店ではなく、高知一の大料亭として君臨しちょりました。今でもさすがにその風情、趣きは素晴らしく、庭も見事。お料理も、いや、ちょっとびっくりするくらい美味しかったです。
正面玄関を入ってしゅっと、左へ曲がった廊下の上。そこに、大きな絵が掲げられちょります。川沿いに聳える立派にして巨大な日本建築。その構図をよくみると、どうやら玉水町。得月楼の歴史は、ちくとややこしいので、整理して見てみんとわからんなります。ネットでも、色んな年代や色んな話が入り乱れますので、ここでは、創業者、松岡寅八翁のお墓に刻まれた墓碑銘をご紹介します。墓碑銘ですき、そんなには間違うちゃあせんと思いますき。
ちくと読みづらいですき、ひまわり太郎文責で、以下に現代語に読み下し。
松岡寅八翁は、嘉永3年、高知城下の水通町、魚棚で生まれた。遠祖は一條家の家臣、岡和泉守である。その後裔が、貞享年間に高知の城下へ出てきて商人となり、「鮎屋」と称して魚商を営み、山内家出入りの業者となった。
父は久平で、その4男になる。生まれながらに、闊達にして奇才であった。幼い頃から家業を手伝い、また、成長してから色んな職について、たびたび失敗しながらも屈することがなかった。明治5年、玉水新地に劇場ができ、大人気となる。寅八翁は、そこで料理店を営んだところ大ブレーク。たちまち、大儲けして財を成した。そこで、将来家業の基となる楼名をつけようと、陽暉楼と称するようになった。後に、谷干城将軍の命名で、得月楼と称すようになる。
明治22年、稲荷新地に移り、劇場玉江座跡地に、巨大な楼閣を新築した。この場所は、鏡川に沿い、孕門を望み、風光明媚で、楼台の美しさと相俟って、お城のような景観となった。明治40年には、更に、市中に中店を開店、どんどんと発展して、本店、中店を増築、設備を整えて面目を新たにし、従業員は常に200人を超えるという堂々たる規模となって西日本に名が響き渡り、海南第一の名物と称せられるに至った。
昭和3年、高知公園で創業60周年の祝宴を張ったところ、1500名が来宴し、皆、名士であった。
昭和7年5月17日逝去。享年83歳。潮江小石木山に葬った。会葬者は3000人。大商人になったが、元は、名門の家系で、資性堅忍で、キッチリした性格。1本の天秤棒から身を起こして、海内屈指の大楼主となった。その成功は、まさに、立志伝中の人物である。息子の熊喜くんが、翁の名を継ぎ、二代目寅八と称して業務に励み、家名を益々盛んにしているという。
以上が、寺石正路さんが書いた、墓碑銘の文章。なるほど。
まず、明治の始めに、玉水町で料理屋を始め、陽暉楼と称し、大きな楼閣となった。で、ここには年号はないが、明治11年に、西南戦争の英雄として帰高した谷干城将軍が、「得月楼」と命名。
その後、明治20年代に、稲荷新地に移転し、豪壮な楼閣を新築して、海南一の名声を得るに至った、という訳ですね。で、現在の得月楼の場所に「中店」もオープンし、発展した、という訳です。店のホームページによりますれば、須崎や室戸にも支店があるほど。
さて。ここは玉水町から鏡川へ出たところ。お店のホームページを見ると、ここの写真が。陽暉楼の生垣の痕跡ということにかありません。ん?生垣?石垣ぢゃあのうて?
う〜ん、謎です。が、まあ、たぶん、ここに明治22年まで、陽暉楼、後に得月楼の本店があったがは間違いないでしょう。なるほど。玉水町の、旧赤線の場所からまっすぐ南へ出た、堤防沿い。そうか。
上の新地、玉水新地は、我々がいわゆるゴチョーメと読んだ旅館街と、その南、鏡川沿いの堤防上にあった訳か。そこに、ひと際巨大な建物があったのか。
そこで谷干城将軍が凱旋の観月会をやり、得月と名付けた訳ですな。
この場所に、その痕跡が残っちゅうのかどうなのか。それは謎ですが、ここに、現在の得月さんの玄関脇廊下上の掲げられちゅう絵に描かれた、豪壮な建物があったのは間違いないでしょう。