春野、森山八幡宮さんと日野資朝さん〔3692〕2013/05/25
2013年5月25日(土)あづい〜
暑いですな。今朝は高知。朝から、春野方面へとたつくりに行きました。電車通りの朝倉から、旧国道56号線を通って荒倉トンネル。そして春野。弘岡から南へ下ると森山。
もう、この界隈は歴史の宝庫。古くからの土地。しかし、ホントに栄え始めたのは藩政期になってから。もちろん、野中兼山さんの功績が大きい。
春野に、仁淀川から用水を引き、広大な土地を灌漑したのは、もちろん野中兼山さん。その用水の中心となる新川川は長浜川とつなげられ、灌漑用水としてだけではなく、仁淀川と浦戸湾をつなげるという水運の大動脈ともなったので、とくに、「新川の落とし」と言われる物流結節点は、こじゃんと賑わいを見せた、という話は以前にも書きました。
その「新川の落とし」の所から南東へ少し走ると、山裾に、古く、由緒ありげなお宮さん。森山八幡宮さん。大自然に抱かれた神社。今日はここまで走る途中、大きいカンタロウさんに始まって、ムカデ、そしてアオダイショウにも遭遇。自然の素晴らしさ、生命の力強さを体感しながら、暑さに絶えて走ってきました。そしてこの森。
実はこの八幡さま、土佐ではかなり珍しい神像が安置されちゅうがで有名。日野資朝さんの像。
そう。日野資朝さんは、こないだ行って来た隠岐ゆかりの、あの後醍醐天皇の側近中の側近。公家さん。元弘元年(1331年)に、後醍醐天皇の鎌倉幕府倒幕計画が露見、失敗して、後醍醐天皇は隠岐に流され、そして日野資朝さんは佐渡へ。
後醍醐天皇は、その後脱出して政権を奪取する訳ですが、日野資朝さんは、佐渡で処刑されました。
さてさて。何故、そんな人物の像がここ、春野の森山八幡宮さんに鎮座ましますのか。そこに伝説が残ります。
日野資朝の孫、勝朝くんが、公家方、南朝方の勢力挽回を期して諸国を巡ったそうです。そう。建武の新政が水泡に帰し、室町幕府ができておった時代。その勝朝くん、巡り巡って、ここ、森山までやって来たそうです。で、ここの領主に厚遇され、お祖父さんの霊を祀ることを奨められた訳です。
ここに、この八幡さまを建立、日野資朝さんの像をつくってお祀りすることになりました。という伝説。今も、その、35cmという小ささながらも存在感のある像が、この社に鎮座ましましちゅうそうです。もちろん、普段、直接見ることはできませんが。
この八幡さまは、その後、この地域一帯の産土神として尊崇され、今に至っちょります。自然と幽玄さ、神々しさが融け合った、美しい境内。南北朝時代の痕跡が、こんなところに残ります。
今日は、ここにお参りしちょいて、新川の落としをゆっくり観察、そして、春野の運動公園の方へとたつくりました。
春野運動公園では、県体が始まっちょりました。県下の高校生のスポーツの祭典。ですきに、色んな学校の制服を着た高校生で溢れかえっちょった春野運動公園。
面白いことに気付きました。
女子高生の中には、スカートを思いきって短こうにしたりして、化粧をガイに決めこみ、髪型もこじゃんとリグって、勝負しに来ちゅう子がおります。なるほど。県体は、県下の高校生が集まってくる場ですきに、勝負の場でもある訳か、などと、なんちゃあぢゃないことを考えてしまいました。
それにしても暑いです。