今日も春野、田んぼの神様〔3693〕2013/05/26
2013年5月26日(日)あづい〜!
今朝も、昨日に引き続いて春野方面へたつくりに行っちょりました。今日のルートは、鏡川河口近くの家から鏡川大橋を渡り、電車通りを横切って、そして南へ。100円トンネルと呼ばれる2本の長いトンネルからなる有料道路を抜けて、競馬場のところへ。乗り物に乗っちょりませんき、もちろん無料。
競馬場の横を通って南下していくと、短いトンネルがあります。車ですと、見逃してしまいますが、トンネルを抜けたところが、長浜川に架かる橋。そして、しゅっと西が唐音(かろと)の切り抜き。今日はそっち方面が目当てやったので、トンネルを抜けたところから道路の側壁の乗り越え、知らんヒトんくの畑へ。そして、どうぞりこうぞり下っていくと、長浜川沿いの道路。しゅっと西が唐音の切り抜き。
昨日も書きましたが、藩政期初期、野中兼山さんが仁淀川に八田堰を構築して、春野を沃野に変えた訳ですが、その際、その用水の中心である新川川を長浜川とつなげ、浦戸湾、つまり高知の城下と仁淀川水系とを水運で結び、物流革命をおこした訳です。元々、新川川は甲殿川に流れ込み、そのまま太平洋へ向かうようになっちょります。それを長浜川とつなぐには、山をひとつ抜けんといかん。と、いう訳で、山を切り抜いて2つの川をつないだので、その切り抜いた部分が唐音の切り抜きと呼ばれるようになったのでありました。当時のこと。すさまじい難工事であったことは、現在のその風景を見ても、想像できます。
競馬場から南へ行きよって、トンネルを抜けたらしゅっと右を見てみてください。そこ。
さてさて、今日は、唐音から諸木へ。西諸木に静かに鎮座まします御三所神社さんと森神社さんが目的。そこには、1867年、つまり慶応3年、つまり明治になる直前の幕末最後の年、土佐にだけ存在した「私年号」、天晴の痕跡が残っちゅうがです。御三所神社さんの「天晴元卯九月」と刻まれた狛犬の台座と、森神社さんの「天政元卯歳 九月吉日」と刻まれた手水。この元号は、ここ以外にも安芸の春日神社さんの燈籠や、赤岡の須留田八幡宮さんの絵馬とかに残る、ホント、土佐にのみ存在した幻の元号。なぜ、土佐にそんな元号が存在したのかは、謎。
そして西諸木では、同じ時期、ご近所の神社でご寄進されたものに刻まれた文字が天晴と天政。昔は、今ほど、漢字の使い方にこだわっちゃあせんかったことが、これを見てもわかりますな。
ともあれ、暑い。今日も、昨日に負けず、暑かったです。走りよりましたら、もう、汗が滝のよう。暑い暑い言いもって西諸木から北上しよりましたら、だいぶ成長してきた稲が美しい田んぼの真ん中に、ご覧のようなオブジェ。
おさばい様でしょうか。
この、春野界隈、本当に、神社とか祠とかが多いエリア。古くからの生活が、そのまま多く残されちゅう地域でもあります。走りよりますと、あちらにもこちらにも、ホントに信仰の対象がどっしこ。
そして田んぼにはこの神様。
県内でも、田舎へ行きますと、田んぼの神様を手厚く祀っちゅうところは多いです。南国市の、ひまわり乳業がある界隈も、神様がいっぱい。
田んぼの隅に、小さな祠を置いておさばい様にしちゅうケースも多いですし、田んぼの中にお祀りスペースを設けちょったり五輪塔を立てたりしちゅう場合もあります。が、ここ、春野の田の神は、なかなかすごい。立体的。
ここは芳原になるでしょうか。竹を4本立てて、その上に板を敷き、そしてその上に神様。
正面のこんもりした山が芳原城址の山ですが、その手前にも同じものが立てられちゅうがが見えますでしょうか。こんな神様が、この芳原界隈には多いにかありません。
土地土地で、昔から伝えられていく想いと習俗。豊作と繁栄、健康を祈る気持ちは、昔も今も変わりませんね。