やっと来ました、横山城址〔3601〕2013/02/23
2013年2月23日(土)晴れ!
やっと来ました。介良、横山城。介良城とも花熊城とも呼ばれる、戦国期、横山氏が本拠とした城址。介良の、朝峯神社さんのちょっと南、介良川沿いのこんもりした小山の上。何度か、このにっこりでもご紹介しましたが、てっぺんの城址までたどり着いたがは初めて。
こないだ、1月14日に、介良川の橋からこの小山を撮影しちょりますが、てっぺんまではよう行き着かんかったがです。ですきに、今日はリベンジ。ちょっとわかりにくい、民家と畑の間の小径を行くと、ちゃんとした階段がしつらえられ、立派な社殿がありました。右手が城八幡で、左手が横山神社。
長宗我部国親が、土佐の制覇戦に乗り出した天文16年(1547年)。まず、岡豊城から眼下に見える大津の天竺氏を攻略、そして、その勢いで、ここ、横山氏を討ったのでありました。
横山氏は、歴史も古く、豊かであった介良の地を長く治めた豪族やったでしょうが、長宗我部氏に取って代わられました。で、こないだも書きましたが、当主、横山九郎兵衛は、その後、長宗我部の重臣になったという、戦国らしい紆余曲折。
さて。
今日は、実は、介良、鉢伏山界隈をたつくりまわって来たがです。朝、会社へ行った後の午前中。
まずは、車道を、潮見台ニュータウンへ駆け上ります。なかなか坂道も急で、走るがにはボッチリ。ずんずん駆け上がって一番上の3丁目へ。
今日は、そっから、東の山へ行ってみました。尾根筋を東へ。以前、向山戦争遺跡でご紹介した場所が、今、どうなっちゅうかを確認に行ってみたのであります。
もう、あの、米軍上陸作戦に備えた地下トンネルの場所までは、行けませんでした。樹々が伐採され、もう、たぶん埋められたと思います。途中、チェーンソーや重機の音、そして樹々がバキバキいう所まで行きましたが、それ以上進むと危険なのでやめました。
引き返し、団地から、今度は鉢伏山のてっぺんに駆け上がります。山中に戦争遺跡と思われる壕や穴がたくさんある鉢伏山。山頂付近の大山祇神社にお参りしちょいて、西へ下りていくと岩屋観音堂。ここでもお参りして、岩屋方面へと一気に下って山裾。山裾沿いを北上、白水という古い住宅が並ぶ地区を抜け、そしてここ横山城址。なかなか遠回りしましたねえ。
横山城址から、介良富士の山裾。そして、また、山道を登ります。目当ては、以前にもご紹介したことのある、陸軍第11師団司令部跡。
戦争末期、米軍の上陸作戦に備え、第11師団の司令部を、ここ高知に持って来た訳です。もちろん朝倉の44連隊など、四国のすべての兵力が配下になる11師団。その司令部は、防衛戦を想定して、介良の山中に置かれた訳です。陸軍にとっても、非常に重要な拠点。かなりの人数が駐屯しちょったと思われます。
が、今は鬱蒼とした山。今回、その司令部跡地に建つ「嗚呼 錦兵團司令部之跡」という碑へ行ってきましたが、前回行ったときよりも、さらに、かなり荒れちょりました。道は、ほとんどヒトが通った形跡はなく、荒れ放題。碑の周辺も雑草が生い茂って、誰もメンテナンスしてないのは明らか。もう、11師団に属した兵隊さんも、少のうなっちゅうでしょうし、ご高齢で、ここまでは登って来れんかも知れません。それにしても荒れ放題。ここに、まぎれもなく戦争があった、ということを後世に伝え、平和を願うためにも、なんとかしたいですねえ。これは。
案内板では、そっから、潮見台の2丁目辺りに山道がつながっちょります。で、登ってみました。道は、もう、荒れて荒れてなにがなにやら。ほどなく道も見失い、完全に、道の無い山中を彷徨しながら上へ上へ。今の季節やきできるがですが、夏場やったらとても無理。薮を漕いで漕いで上へ上へ。どうぞりこうぞり、団地にたどり着きました。途中、師団が使ったと思しき穴などの痕跡もいくつか確認。
日本陸軍が、本気で、米軍上陸をここで阻止しょうとしよった、その痕跡。高知にも、そんな戦争があった、その痕跡を、このまま荒れ放題にしちょくがは、ちくと考えんといかんと、思いました。