甫喜ヶ峰疎水のトンネル〔3520〕2012/12/04
2012年12月4日(火)晴れ
昨日は時間がなかったので撮影に行けんかった、どうしてもご紹介しちょきたかった施設がこれ。
一昨日のにっこりで、京都、南禅寺境内の琵琶湖疎水をご紹介しました。明治23年に第一疎水が完成し、疎水の落差を利用した日本で初めての発電も行われた、琵琶湖疎水。それでは、西日本で、琵琶湖疎水の次に疎水を使った水力発電が計画、実行されたのはどこか。それは、ここ、甫喜ヶ峰疎水なのであります。
甫喜ヶ峰と言えば、昔、昭和天皇による植樹が行われ、森林公園として整備されたがで有名。ですけんど、そこには、実は、土佐の先人の知恵と努力の結晶が存在します。甫喜ヶ峰疎水、元々は、発電の為につくられた、という訳ではありません。目的は灌漑。最初に考えたがは、かの、野中兼山さんと言われます。
この山の北側には、吉野川の源流のひとつ、穴内川が流れます。そこから四国山脈の山間を流れて、はるか、徳島市から海に流れ出す、その源流。水量は豊か。
ここから山の急斜面を下ると、平山。今は美しい集落として有名な平山。平山には、国分川の源流のひとつ、新改川が流れます。
新改川は、元々水量が少なく、流域の植田、久次などの住民と、藩政期初期に新改川に堰をつくって開発された新田、須江地区との水争いが絶えんかったそうです。で、野中兼山さんの偉大なる構想では、吉野川水系の穴内川を、山にトンネルを抜いて新改川に落とし、灌漑にりようする、というもの。結局は実現せんかった訳です。甫喜ヶ峰という巨大な山に、長い長いトンネルを抜かんといかんかったので。しかし明治になって、事態は動き始めます。
明治6年、7年、大干ばつに襲われ、またまた大規模な水争いが勃発。大審院の裁定まで持ち込まれた深刻なもの。そこで、野中兼山さんの構想が復活、甫喜ヶ峰疎水を抜こう、ということになって明治29年に着工、難工事の末、明治33年7月に貫通した、という訳です。
写真は、平山から甫喜ヶ峰に登っていく道路脇。疎水の一部が通り、昔つくられた、レンガ造りのトンネル入り口が見えます。このトンネルを抜けると、急な急な斜面を一直線に谷へ落ちて行きますが、それは壮観。
ところで、開通した甫喜ヶ峰疎水は、支流の谷を水道橋で渡ったりしながら山田方面へ。開通してしばらくは、途中に広くて深い谷があったりして山田、鏡野方面にはつながっちょりませんでしたが、明治42年、今年10月11日のにっこりでもご紹介した松尾サイフォンが完成して山田用水が全通。今につながっちゅうということであります。すごいですね、これ。なんという先人の知恵と努力。
まだすごいのは、最初にも書きましたように、この疎水の落差を利用して発電をしょう、というもの。当時の高知県知事、宗像政が県議会に提案するも、「水から火ができるか?」と紛糾、なんとか説得して着工、明治42年に、県下最初の水力発電書として平山発電所が完成。大正8年には新改第二発電所ができて、高知の電力需要の大きな部分をまかのうた訳です。今でも、新改の水力発電書は、立派に稼動しております。
琵琶湖疎水をご紹介したら、どうしてもご紹介しちょきたかった甫喜ヶ峰疎水。琵琶湖疎水のように舟は通りませんが、灌漑と発電に利用され、今でも活用されております。このトンネルなど、美しい産業遺産に見える場所も多いですけんど、今も現役。我々の豊かな生活は、こんな知恵と努力の上に成り立っちゅうということを、まざまざと見せつけてくれます。