ラグーンのある風景〔3506〕2012/11/20
2012年11月20日(火)良いお天気
心地良く晴れた朝。今日も良いお天気。
この写真は、南国市の、三和小学校から南へ数百メートルの所から、東の方向を撮影したもの。前浜の浜堤の上に朝日。左端のとっと向こうに、三宝山が霞んで見えます。
前浜から浜改田の、あの浜堤は、弥生時代の遺物が発掘されちゅうことから、弥生期には、もう、形成されちょったことがわかっちょります。浜堤の、一番高い部分に鎮座ましますのが伊都多神社さん。海抜13mくらいらしいです。今次、改訂された、南海地震津波の最悪予想高は、南国市で16mですき、ちょっと危ないかも知れません。
あの浜堤の東端に近いところの北側に、そこが大湊であった、と説明する碑がありますよね、たしか。土佐日記で、紀貫之さんが京へ帰る際に立ち寄った港。たぶんその辺であろう、と想像されちゅう訳です。なぜなら。
浜堤の東に「切戸」という場所かあります。以前、何度かご紹介しました。今は水門があって、後川の水がそっから海に出れるようになっちょりますが、江戸時代は陸地でした。で、洪水の際、そこが切れて川水が海に流れこんだので「切戸」。
さて。中世、今の空港滑走路の北側に、守護代、細川氏の居館があったがはご承知の通り。そこが、土佐の政治の中心。その当時、物部川は、そのしゅっと東を流れよったと思われるのであります。まあ、江戸時代になって野中兼山さんが物部川の流路を固定するまで、幾筋もの流れはあったでしょうけんど。とにかく本流がどうやらそこ。そっから南へ流れると、千屋城の東を通り、大湊小学校界隈から下って海へ。そう。切戸界隈が河口やったがかも知れん訳です。浜堤の東側。
で、河口部、浜堤の北側から西に向け、広大な湿地帯、ラグーンがあったという報告があります。広い広いラグーン。と、しますと、そのラグーンは風や浪を避ける、天然の良港であった訳で、切戸から入って西へしゅっとの、今の、大湊の碑が立っちゅう界隈が大湊やった、という想像も、説得力があるのであります。
そのラグーンは、太古の昔からあったでしょう。
この写真の風景が、一面のラグーン。その岸辺、南岸に、大湊。北岸に守護代の居館や環濠集落。弥生期には大規模集落。ということになるがでしょうか。
この、写真を撮った場所から北へしゅっとのところに、蚊居田城がありました。湿地の中の城。戦国期。ずうっと北上していくと、西野々遺跡。巨大な竪穴式住居跡がみつかった、弥生期の遺跡。どうやら、このラグーンの縁辺にたくさんの遺跡があるようで、目を閉じると、太古の風景が妄想できます。
この場所へ来て、そんな風景を妄想するがが、好きです。