お婉堂〔3479〕2012/10/24
2012年10月24日(水)晴れ!
寒いくらいの朝。良いお天気になりました。今朝は山田。土佐山田。現在の香美市。山田の、弊社に生乳を出荷してくれよります酪農家さんのしゅっと近くに、夥しい歌碑が並ぶ神社があります。野中神社。通称の「お婉堂」という名前の方が有名でしょうか。
お婉さんは、藩政期初期の執政、野中兼山さんの娘。
藩政期初期、その豪腕で、土佐全域のインフラ整備をおこなった野中兼山さん。もちろん山田も、その用水の恩恵に預かっちょります。当時の人々は、過酷な労働を強いられたりした訳で、兼山さんはかなり恨みを買うちょったのは事実。
兼山さんの後ろ盾は、二代藩主、山内忠義。その絶大な信頼のもとに、数々の大土木工事を完成させていった訳ですけんど、忠義さんが引退し、三代藩主忠豊が登場すると、今迄、メッソ発言できんかった重臣たちが、口を揃えて兼山非難を始め、政治の表舞台から追い出されたがはご承知の通り。
そして、香美郡中野村に隠棲して、そこで亡くなりました。終焉の地は、2009年11月20日のにっこりでご紹介しちょります。
さて、問題はその後。
ご承知の通り、野中家は改易。お取り潰し。重臣たちの恨みは深かったがです。ここまでせんでもかまんろうに、という程の、徹底した罰が与えられました。遺族、遺臣は罪人となり、宿毛で監禁。許されたがはなんと40年後。男子は死に絶え、三人の娘と母、それに乳母が釈放されたという話は、宮尾登美子さんの小説にも詳しゅうございます。
その娘の一人、お婉さんは、高知の朝倉の旧臣宅に寄寓、お医者さんとして過ごしたということ。
野中家が断絶になったがを何とかしたかったお婉さん、山田の、旧臣、古槇氏を頼り、土地を購入、小堂を建立して、野中一族をお祀りしたのでありました。同時に、兼山さんに仕えた旧臣たちの霊も祀りました。それがここ、お婉堂。
お婉さんの遺書である、祖先並の旧臣を祀る祭文は、漢文で書かれた秀逸にして美しい文章。お婉さんの学識、頭の良さがよくわかります。ここへ行くと、その祭文の内容を読む事ができます。
そんな訳で、学識の高かった女性、お婉さんに因んででしょう、この境内にたくさんの歌碑が建てられることになったのでありました。当然、女性のものが圧倒的。お婉さんと同じく、女医さんの歌碑もあります。
山田界隈は、野中兼山さんにとっても、その土木工事の縁が深い土地。お婉さんが野中一族のお祀りをするのにこの土地を選んだのは、そんな理由もあったかも知れません。