お婉堂の祭文〔3480〕2012/10/25
2012年10月25日(木)晴れ!
いや、驚きました。昨日の朝、山田の、お婉堂(野中神社)へお参りして、にっこりで、そのご紹介をしました。野中一族や旧臣を祀るお堂を建てた際、お婉さんが書いて読み上げたという祭文を、そこへ行けば読める、と書きました。お堂のしゅっと横に、祖廟祭文として、漢文を読み下した説明板が立っちょったきです。
今朝、高知新聞を読みよりましたら、お婉さんを顕彰する市民組織が、お婉堂に、祭文の説明板を、この10月23日に設置した、と書いちゃあるではありませんか。ん?
昨日は10月24日。昨日、その説明板の写真も撮っちょりましたので、改めて良く見てみると、まこと、「寄贈 平成二十四年十月二十三日 野中婉を顕彰する会」と書いちゅうではありませんか。
ひまわり太郎、偶然にも、その説明板が建てられた翌朝、それに引きつけられるように、お婉堂にお参りしたのでありました。
実は、恥ずかしながら、小生、お婉堂にお参りしたのは昨日が初めて。しゅっと近所にありながら、まだ、行ったことなかった訳です。それが、その祭文説明板設置に引き寄せられるように、お参りさせて頂きました。不思議を感じます。
今一度、昨日撮影した説明板の文章を、じっくりと読み直してみました。やはり、思いのこもった、素晴らしい文章。内容を、少しだけかいつまんでみます。
宿毛での40年間の幽閉中、3人の兄が亡くなった後、末の弟が、自分が死んでも、野中氏族の霊の行き場所は無いことを嘆いておりました。そして、その末弟は、生後5ヶ月で幽閉され、宿毛で幽閉されつづけ、そのまま生涯を終えました。残された母は、嘆き悲しみ、自分も一緒に死ぬ、と言いましたが、絶対にそのうちに赦免されるので、それを待ち、弟が言いよったように、祖廟をつくって死んだ後の居場所をつくろうではないか、と、説得しました。
そして、赦免。旧臣たちが、筆舌に尽くせないような世話をして下さり、生活ができるようになりました。旧臣の一人、山田の古槇重矩さんに頼み、その北東の地所を売って頂き、宝永五年九月二十二日、祖廟をたてることができました。僧などに頼まず、古槇氏の子孫を、代々、祖廟の主としてください。
それから、旧臣、古臣の勲功に報いたいと思うてもかなわないので、ここに記し並べることとします。
といった内容で、その後に、旧臣の名前と勲功、恩義を書いております。これが、宝永5年(1708年)にお婉さんによって、野中神社が建てられた際に奉納された祭文。
写真は、今朝の野市、上岡八幡宮拝殿前。樹々の間に金星が輝きます。この野市も、山田も、そして春野も室戸も中村古津賀もどこもかしこも、野中兼山さんの恩恵を、今でも、こうむっております。皆様ご承知の通り。先人の知恵と努力の上に、我々は暮らしゆうということです。
昨日、できたばかりの祭文説明板に引き寄せられたのは、それを忘れるな、というメッセージかも知れません。