信長の叔母ちゃんの亭主か、信長の従兄弟か〔3474〕2012/10/19
2012年10月19日(金)秋晴れ!
良いお天気になりました。青い秋空が広がります。
今日は昨日に引き続いて、意外な係累の人物の墓所シリーズ。
筆山の登り口からちょっと横に入ったところに、真如寺歴代住職さんたちが眠る墓所があります。その一番奥に、このような自然石の墓石。以前、ここは、織田信安さんの墓所といわれ、筆山登り口の案内板にもそう書かれちょりますが、実際に行ってみますと、「織田信賢の墓」という説明板。
さて。
織田信安さんは、尾張の戦国武将。岩倉城主。信長さんとは、あまり近くはないが、一族。しかし、奥さんは、信長の父、織田信定の妹とされますき、信長の叔母ちゃん。
山内一豊の父、盛豊さんは、その、織田信安さんに仕える武将やったのであります。が、勢力を伸ばす信長に討たれ、戦死。信安さんは、信長を恐れる息子に追放されて流浪。
その後、秀吉家臣になって出世した山内一豊さんを頼って、信安さんがやって来て、関ヶ原後、土佐に随行、厚遇された、という話が残ります。そして土佐で没して、お墓がつくられた、と。
ところがところが、その信安さんを追放した息子、信賢くんも、戦後、山内一豊さんに招かれ、土佐で亡くなったという話もあります。信賢くんは信長の従兄弟ということになりますな。お母さんが信長の叔母ちゃんですき。
さあ、この自然石の風格ある墓石、どなたの墓石なんでしょうか。以前は信長の叔母ちゃんの亭主、織田信安さんとされ、山麓の案内板にも、人名事典とかにも、そう書かれちょります。が、現場の説明板は信長の従兄弟の信賢さん。
昔のこととて、正確な事情や経緯は、もう、わかりません。
ややこしいことに、以前は、信安さんの父、敏信さんの墓である、という説明板が立っちょったこともあったようです。こうなると、もう、お手上げ。
とにかく、一豊さんの父が仕えた織田一族の武将が、その縁で、土佐にやってきて終生を過ごした、ということは間違いないと思います。
それにしてもこの墓所、由緒ありげな、古く立派なお墓が並びます。界隈の、山内家関連の巨大な墓所群とは比べれませんが。この写真の向こうの方、先端が尖った墓石が見えます。山内一豊さんが、遠州掛川から土佐へ赴任してくる際、土佐へ一緒に移ってきた菩提寺、真如寺の住職、在川和尚のお墓。慶長18年(1613年)に亡くなっちょりますので、もうすぐ400年を迎えるお墓。歴史を感じさせてくれる、幽玄な場所。