残すべき痕跡、伝えていく使命〔3424〕2012/08/30
2012年8月30日(木)曇り
次から次へと、南の海から雲が流れ込んでくる高知県地方。突然どしゃ降りになったりするヘンテコリンなお天気が続きます。たまりませんね、こりゃ。
さて、こないだ、高知の色んな痕跡についてご紹介しました。あそこでご紹介したのは、街や川の景観の痕跡。ああいったものを探し、体感するのはこじゃんと楽しいです。
そういった痕跡とは別に、後世にキチンと伝えていかんといかん痕跡もあります。例えば戦争の痕跡。
ここは菜園場の南。高知市文化施設かるぽーとの北側。堀川の、現在の西の行き止まり。その右手が広場。そこは、かつて四ツ橋と呼ばれ、川の交差点に4つの橋が架かっちょりました。
藩政期から架かっちょったのは北側の木屋橋と西側の幡多倉橋。木屋橋は、藩政期の頃は菜園場橋と呼ばれよりましたが、その橋の袂に豪商木屋があったので木屋橋と呼ばれるようになりました。
時代は下って昭和になり、この、かるぽーとの場所に中央卸売市場が開設。それに合わせて、川の交差点の東側に架けられたのが菜園場橋。昭和5年のこと。トラス橋の菜園場橋は印象的で、よく覚えちょります。翌年、南側に納屋堀橋が架けられて四ツ橋形態が完成。それ以来、戦争を生き抜き、昭和40年代まで、ずうっと四ツ橋でした。
太平洋戦争の際には、空襲の標的にもなったでしょう。その痕跡がこの写真。堀川の北に、菜園場橋の鉄骨の一部が保存されちょります。上部を見ると、H鋼の板の部分がグニャリと歪んじゅうががわかります。空襲の際、焼夷弾の直撃で歪んだとされちょります。
かるぽーとの前が広場になり、四ツ橋が姿を消す際、この鉄骨部分だけは保存しよう、ということになって現在もここに残されております。
保存に尽力された方に、心より敬意を表します。
残念なのは、このオブジェの周辺に、これが空襲の焼夷弾の痕跡、ということを説明したものがないこと。ですきに、ほとんどの皆さんは、これを誰かが創作した芸術作品と思いこんじゅうがやないでしょうか。
ここに戦争があった、という記憶は、時代とともに薄れていきます。ですきに、ここに戦争があった、という痕跡は、我々が後世に残していかんといかんがです。残すだけではなく、伝えていかんといかん訳で、やはりこの鉄骨の横に欲しいのは説明板。