大中小に高の謎〔3423〕2012/08/29
2012年8月29日(水)雨
よう降ります。台風はあっちへいったというのに。川もかなり増水しちょりますね。雨はもうエイでしょう、これっぱあで。
さて、昨日「高知のナンバースクール」を書きよって、ふと疑問に思うたことがありました。学校制度について。
現在の学制では、当然のことながら、小学校、中学校、高等学校、大学、となっちょります。その手前に保育園や幼稚園があったり、専門学校があったり、大学ではない大学校があったりもしますが、基本的には小、中、高、大。
そう。小、中、高、大。これ、よく見てみると違和感あります。ありませんか?
普通、大きさなどの単位で言えば、小、中、大、となります。高に対応するのは低。まあ安なんてのもありますけんど、普通は低。で、気になってたまらんかったので調べてみました。
やっぱし、最初は小、中、大で始まっちょります。近代日本の学校制度、いわゆる学制が布かれたのは明治5年。これは、試験に出たので覚えちょりますよね。その際に参考にされたのはフランスの学校制度。
全国を8つの「大学区」に分けて8つの大学校を置き、1大学区を32中学区に分けて256の中学校を置き、1中学区を210の小学区に分けて53760の小学校を置く、というもの。
もちろん、明治維新から近代へと足を踏み出したばっかしのニッポンで、ここで布告された学制通りにすすむ訳もなく、かなりの紆余曲折。しかし、とにかく最初は小、中、大。上で見たように、これは広さの単位でもあった訳です。ですきに小、中、大。
明治19年、中学校令が公布。これが大きかったですな、ニッポンの教育にとって。この時の構想では、各府県に1校の尋常中学校、つまり50校程度の尋常中学校を置き、10校の中の優秀な生徒を1つの高等中学校に進学させる、となっちょります。つまり全国に5つの高等中学校。ここで出て来ました、「高等」。「高等」は、中学校の中の高等なもの、という意味。
結局は尋常中学校は、県に複数置いてもかまんなったりと、実際の運用では紆余曲折。第一から第五までと、山口、鹿児島に高等中学校が置かれた訳です。う〜ん、明治維新。まだ薩長が幅をきかせまくっちょったがですな。
尋常中学校の優秀な生徒、経済的余裕のある生徒が高等中学校に進み、その中の優秀者が、日本に唯一の大学、東京帝国大学に進学する、という仕組。
そして明治27年、高等学校令が布告され、高等中学校は高等学校になった訳です。いわゆる旧制のナンバースクール。結局東京の一高から名古屋の八高までつうられる訳ですけんど、三高が京都帝国大学になったりと、色々紆余曲折。
そしてナンバースクールの後につくられた各地の高等学校は地域の名前がつくのでネームスクール。旧制の高知高等学校はネームスクール。
あとは、戦後の学制改革で、旧制高校が大学になったり、旧制中学が高等学校になったりして現在に至る訳です。
写真は今朝の追手筋。左手が、来年3月で姿を消す追手前小学校。昨日も書いたように、成章学舎であり追手筋小学校であり第三尋常小学校であり第三国民学校であり、そして今では追手前小学校。
右手には高知県立追手前高等学校の時計台。明治9年に高知師範学校変則中学校、翌々年に高知中学校となり、上に書いた中学校令によって高知県尋常中学校に。高知県中学校、高知県第一中学校、高知県立第一中学校と名前を変え、そして高知城東中学校に。年配の方は、この名称に親しみがあるようです。ひまわり太郎の父も城東中学校出身。戦後、高知県立高知新制高等学校となって昭和24年に高知追手前高等学校。
これで大中小に高がハサカる理由がわかってこじゃんとすっきり。朝っぱらからこんな話、興味ないですか?