災害通行止め迂回路、大谷・定古墳群〔3376〕2012/07/13
2012年7月13日(金)曇っちょります
今日は、早朝、会社を出まして車で山陰に向かいよります。高知道、松山道から瀬戸大橋を通り、瀬戸中央自動車道から山陽道へ。そして、岡山道を北上します。
こないだうちからの大雨のせいでしょう。岡山道は、有漢(うかん)ICから北房までが災害通行止になっちょりました。そこで、その区間、一般道が迂回路となります。
こういった道路は、こんなことでもないと、まず、通ることのない道。ですきに、早朝出発したので時間的に余裕があったひまわり太郎、せっかくの機会と風景を楽しむことにしました。こういった、イレギュラーな状況、かなり好きです。
で、道路を走りよりまして、北房ICに近づいてきた辺りで、期待通り、古墳の案内板発見。なんと言いましても吉備。吉備は、大和朝廷ができた時分から、極めて大きい力を持っちょった地域。そして、朝廷ができてから、密接に中央勢力と結びつき、重要な役割を果たしてきたエリア。ですき、遺跡も多いです、ホントに。どこを走りよっても遺跡を見かける、と言うたちかまんばあ、遺跡の多い岡山県。
さて、その、道路から案内板に従うて400mほど入ったところにありましたのが、この、大谷・定古墳群。おおや・さだ古墳群と読みます。その古墳群の中の、この写真に写っちゅうのは大谷1号墳。
2段の基壇に3段の墳丘が乗った、5段もある方墳、大谷1号墳。金銅装環頭大刀と金銅製品が、盗掘を免れて出土したそうです。
この近所には4世紀頃の前方後円墳やら前方高方墳もありまして、古くから強い勢力があったことがわかります。今では、ホント、中国山地のまん中で、都会では決してありません。が、太古の昔は有力者が住むところやった訳です。
この古墳群のなかでもひと際立派なこの古墳に埋葬された人物は、ただものでは無いと思われちょります。この界隈を治めちょっただけの首長ではないとされます。一説には、吉備大宰石川王ではないかといわれちょります。
この人物は皇族。壬申の乱で功績をあげ、天武天皇によって、吉備大宰に任命されたという人物。
吉備大宰は、ヤマトでもかなりの重要地域である吉備地方を治める、中央から任命される官職。内政だけではなく、外交なども司ったがかも知れません。太宰府に太宰大宰が居り、吉備に吉備大宰が居った、ということで、その実力が推測できます。
そんな、壬申の乱で活躍したような人物のお墓がこの古墳としたら、すごいです。こんな山中の奥まった場所に。ロマンですな。
この北房地域、中国道と岡山道のジャンクションがあります。東西の路と南北の路の交差点。ここに、中央政府の有力者が住み、治めたというのは、ひょっと、その当時も交通の要衝やったがかも知れませんね。
現代の高速道路は、ビックリするくらい、古い道と同じルートを通っちょったりします。四国でも、高知道がそうですし、川之江は、古くからの交通結節点。
高速道路通行止めのおかげで、岡山の山中で妄想を暴走させることができました。良かったです。