幽スイ浄静往古可想〔3361〕2012/06/28
2012年6月28日(木)曇り
何度かご紹介したこともありますが、野市(現香南市)には、その市街地の中に、奇跡のように存在する森の小径があります。野中兼山さんが開削した水路に沿い、樹々に囲まれた小径。ここは、かの三叉(みつまた)から東へ少し行った場所。北も南も田んぼや住宅がある平野。そうとはまったく想像できんような静かで幽玄な森の小径を歩くと、心洗われます。
野市の台地は、台地というだけあって水の便が悪く、まさしく荒れ野でありました。藩政期初期の執政、野中兼山さんの養父、直継さんの知行地やった関係で、寛永初年の頃(1624年頃)から開発がすすめられよりましたが、兼山さんが寛永末年頃(1640年頃)から本格的な開発計画をたてて事業に着手、万治元年(1658年)に、その開発工事は完成しちょります。
やり方は、まず物部川に堰を構築して灌漑用水を引いてきます。それで荒れ地を潤し、そこに、長宗我部の遺臣を「百人衆郷士」に取り立てて、移住を督励、そのひとたちに積極的に開拓させていったのでありました。なかなか考えちょります。
香美郡誌に記載されちゅうその開拓の様子は次のとおり。
秦氏国守タリシ時は「ビョウビョウ(さんずいに目に少ないという文字)」タル原野ニテ、タダ草木ノミ繁茂シテ鹿場ナリシヲ、万治年中野中兼山先生ノ開墾セラレ、五千石余ノ田地トナシ、剰ヘ民ノ聚落セシ処ヲ市井トセラレシヨリノ名也ケリトソ、此時家系正き浪人ヲ詮議アリテ自ラ開墾スル事ヲユルシ、永ク私田ニ与ヘ郷士トス、是ヲ百人組野取郷士トイフ
そういうことであります。
ここから、この森の小径を東へ行くと、田んぼと住宅の、拓けた場所に出ます。400mくらい行った場所に鎮座ましますのが野々宮神社。近年、社地について揉め事があったらしく、その顛末を石に刻み付けて知らしめちゅうという、珍しいお宮さん。源平合戦の際、伊豆で挙兵した頼朝に呼応して土佐の介良で挙兵した、頼朝弟の源希義さんを助けようと、夜須から駆けつけよった夜須行家さんが、希義が討たれた報を聞いて引き返したがが、その野々宮さんの場所やといわれます。
野市の開発が進みだしても、その野々宮界隈は幽玄な森やったようで、桂井素庵さんが元禄の頃にも、幽玄で静かな場所であり、往古のことを偲ばれる風情であることを書いちょります。今、野々宮人神社界隈はそんな雰囲気もなく平地の中ですが、当時は、たぶん、この写真のような風情やったがでしょう。
その、桂井素庵さんの表現はこうです。この奇跡のように存在する森の小径にぴったりの文章ですので、ご紹介しちょきます。スイは「深い」という意味がある古い難しい漢字。
幽スイ浄静往古可想