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今日のにっこりひまわり 毎日健康社員日記

夜明け前、垂れ始めた稲穂、介良、源家平家、小松殿〔3362〕2012/06/29

夜明け前、垂れ始めた稲穂、介良、源家平家、小松殿

2012年6月29日(金)晴れ

梅雨の晴れ間。夜明け前の風が心地よく身体を冷やしてくれます。
皆さんのところでは、田んぼ、どんな感じになっちょりますですろうか。高知は、もう、稲穂が垂れ始めた田んぼが増えてきよります。ご覧の通り。7月には稲刈り。まだ梅雨真っ盛りの時期に稲刈り準備が始まるというのも、高知ならではでしょうか。濃い緑色になっちょった風景に、ちょっとづつ黄色が混じり始めました。

ここは介良。五台山から介良にかけての、整備された広大な田んぼ。その向こうに介良の新市街、介良富士の麓に、往古からの介良の集落が広がります。

土佐の国に荘園が成立し始めたのは平安時代後期。
土佐の代表的な荘園を東から並べると、山城国石清水八幡宮領奈半庄(奈半利町)、摂関家領和食庄(芸西村)、山城国石清水八幡宮領夜須庄(香南市夜須)、山城国神護寺領田村庄(南国市)、紀伊国熊野神社領吾橋庄(本山町)、伊豆国走湯山密厳院領介良庄(高知市)、山城国神護寺領久満庄(高知市)、山城国法金剛院領朝倉庄(高知市)、山城国下鴨社領津野庄(須崎市)となります。

介良庄は、伊豆走湯山密厳院領。いつ頃成立したかは不明ですけんど、文治元年(1185年)には、走湯山領になっちょったということが吾妻鏡に書かれちゅうそうです。走湯山と言えば、頼朝が伊豆で挙兵、再興への路を歩み始めた際に、その再興を祈願した場所で、鎌倉幕府成立後も頼朝によって尊崇された源家ゆかりの場所。

平治の乱の後、父親源義朝の罪に連座して、頼朝の弟の源希義くんが介良へ流されたのは1160年のこと。8歳くらい。それが走湯山領というのは偶然やったがでしょうか。それとも、意図的に、義朝の息子たちを伊豆関係の場所に配流したがでしょうか。

何度か書いたように、頼朝挙兵に呼応して兵を挙げようとした希義さん、平家、平重盛の家人、蓮池家綱、平田俊遠連合軍に年越山で討たれてしまいました。1180年のこと。土佐で20年を過ごしちょりました。

ところで今、平重盛さんの名前がでてきました。ご存知、平清盛嫡男。六波羅小松第に住んだことから「小松殿」などと呼ばれました。
源平合戦の途中で病死する訳ですが、平家滅亡後、重盛係累の落人が土佐方面に逃げ、土佐東部に隠れて、その後定住することになったという説があります。
高知県東部に「小松」という姓が多いがは知っちょりますよね。
室戸や安芸の小松さんは、平重盛の子孫である、という説。有り得る話ではあります。重盛家臣、家人の子孫ということなら、大いに有り得る話であります。

重盛は清盛の嫡男。つまり、高知県東部の小松さんは、清盛末裔ながかも知れません。


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