少しづつ消えゆく昭和〔3307〕2012/05/05
2012年5月5日(土)良いお天気のこどもの日
キレイに晴れました。行楽日和。今日は会社へ行っちょりましたが、乳業メーカーさんは365日(今年は366日)ですき、いつもと変わらんいつもの姿。これから気温も上がって、忙しい季節を迎えます。
さて、先日、出張から帰って来て、空港の駐車場の送迎車の運転手さんが「これから高知へイヌルがやったら宝永町辺りが混んじゅうかも知れんぞね。火事かあったにかあらんき。」とおっしゃいました。急いじょったもんですき、電車通りを避けて高知中心部へモンたので、その時は、どこが火事になったか気になりつつも忘れちょったのです。
昨日、Jr.2号が、宝永町の古い路地のところが焼けて骨組みになっちゅう、と言うたので、突然思い出しました。そして、焼けたのは、何度かこのにっこりでもご紹介したことのある、街中に奇跡のように残された、あの昭和の雰囲気満載の路地であったことを知ってショックを受けたのでありました。
で、今日、行ってみました。まだ、焼け跡はそのままで、無惨に焼けこげた骨組みが残されちょりました。
この路地を最初にご紹介したのは2005年5月10日。その前々年頃にひまわり太郎隊長のもと結成されちょった「高知のぬかるみ探検隊」で、その路地を探検、とてつもなくワンダーな異次元空間を体感してきちょったことを書きました。当時は、まだ、何軒かの飲食店が営業しよった訳です。路地の奥の方はアパートで、昭和の雰囲気に満ちあふれちょりました。
その次にご紹介したのは2010年8月12日。その頃になると、もう、ほとんど営業しゆうお店はなかったと思います。南側の入り口付近から撮影しました。
そして、2011年1月13日の「路地考」で、日本の路地について深く考察しちょります。あの時に撮影したのは路地の中程にあった共同便所。その便所も、すっかり燃えてしもうちょりました。
そして最後にご紹介したのは先月、4月11日の「真知子巻きとヘップ履き」。まさか、それから間もなく焼けてしまうとも思わず撮影しましたが、今となっては貴重な記録。あの日は、あの路地を何枚も撮影しちょりまして、まだ、PC内にデータが残っちょります。実に貴重なアーカイブになってしまいました。
路地の南3分の1くらいは焼けずに残っちょります。以前と変わらぬたたずまい。しかし、この焼け跡を片付ける際にどうなってしまうのかはわかりません。
昭和が、少しづつ遠くなっていきます。