連続3300日記念は国沢城址を眺める〔3300〕2012/04/28
2012年4月28日(土)良いお天気
今日は高知。良いお天気。今日から連休という方も多いようで、晴れて良かったです。そして今日は、この「今日のにっこりひまわり」連続3300回記念日。最近、こういった100飛び記念日は忘れがちですが、ご指摘下さる方がいらっしゃいまして、今日は覚えちょりました。ありがとうございますです。
にっこり初期の頃、100飛び記念日は高知城からお伝えすることが多うございました。高知城は、高知市民の命山。山内氏がお城を築く前は、長宗我部元親さんの城があり、その前は、大高坂氏の居城があったとされます。こないだも書きましたが、城の東で中世の遺構が発掘され、湿地帯であった現在のお城下中心部を街にしていった様子が少しづつわかってきました。中世初期、大高坂氏が、高知の中心部を街にしていくがに大きな役割を果たしちょったがは間違いないでしょう。
さて、その大高坂氏の東に隣接する土地を戦国期に支配しちょったのは国沢氏。今の堺町界隈に城と申しますか居館ともうしますか本拠を置いた豪族。
土佐の戦国期は、長宗我部氏や一条氏、本山氏など、戦国七守護と呼ばれる大名が力を持っちょりました。その七守護に次ぐ勢力を持っちょったとされるがが「四大封」と呼ばれる豪族。
現在の土佐町森を本拠とし、中原へ進出して今の筆山に城を築いちょった森氏、現在の南国市里改田を本拠とした蚊居田氏、空港滑走路南を中心とした千屋氏、そして国沢氏の4氏が四大封。
南北朝戦乱で破れ、弱体化した大高坂氏に変わって現在の高知市市街地界隈を支配したがが国沢氏。写真は、鏡川の土手から堀詰方面を撮影したもの。この、ちょっと向こうの右手の方に国沢城があったとされます。
連続3300回記念は、いつもの大高坂城ではなく、国沢城にしてみました。国沢という名称からも連想できますように、鏡川河口近くの湿地帯やったこの場所。少し土砂が堆積して高台にようになっちょったようです。その低い高台(なんじゃそりゃ)に、国沢城があった風景が想像できますでしょうか。
戦国後期、この界隈の支配者であったのは国沢将監さん。本山梅慶さんが朝倉に城を築き、土佐の中原を支配するようになって、本山氏に属します。長宗我部国親の秦泉寺氏攻撃に際し、大高坂氏と一緒に秦泉寺氏に援軍を送ったとされます。
今の高知の市街地は、大高坂さんと国沢さんが一緒に治めよった感じでしょうか。
永禄3年(1560年)、長宗我部対本山の決勝戦が本格的に始まり、長浜で長宗我部軍が本山軍を敗走させて、元親くんが一気に本山配下の潮江城を陥としたので、国沢氏も長宗我部軍にくだり、配下となったということ。
山内氏が入国、城下町づくりを始める前まで、国沢氏と国沢城は、残されちょったという説もあります。
平安の頃まで浦戸湾であり、湿地帯となり、干拓が進んで開発され、そして堅固に形成されていった現在の高知の市街地。その基礎を創りあげていったのは、大高坂氏であり、ここを本拠にした国沢氏であったということは、ほとんど知られちゃあしません。