大阪、木津川、大地震両川口津波記念碑の想い〔3284〕2012/04/12
2012年4月12日(木)晴れてまんがな
で、今朝は大阪。昨日の夜の飛行機でやって来ました。
実は昨日は、ひまわり乳業へ搾った生乳を納入して下さりゆう酪農家さんの組合の、その婦人部の研修でした。昔、たぶん娘さんやったと思われる皆さん。ひまわり太郎も同行して、南国工場からバスに乗り、高知県東部、田野町の坂本牧場さんを見学、そして室戸吉良川のキラメッセで豪勢な食事をしちょいて、室戸岬へ行ったのでありました。そう。ジオパークに指定された室戸を見ちょこうという主旨でした。
しかし。
丁度、我々が室戸を到着した時間が、大雨大風の大荒れ真っ最中。仕方ないので散策はあきらめ、あちこちの道の駅やらアクアファームやらに寄って買物とおしゃべり三昧。
酪農家さんは、朝晩搾乳がありまして、なかなか遠出の旅行とかに行けません。ですきに、この、婦人部の研修はかなり貴重な機会なのでありました。
一緒に行って、なかなかたのしゅうございました。
で、会社へ帰って来てから、夜の飛行機に乗って大阪へ来た訳です。
で、今朝は心斎橋から四ツ橋、そして道頓堀川沿いを西進して木津川との合流地点までたつくりに行っちょりました。
ここは、その、合流地点、木津川に架かる大正橋のたもと。ここには、安政地震津波を記録した碑が立っちょります。
写真は、その碑を裏側から写したもの。向こうには、京セラドームが見えております。この大きな石碑、正面には南無阿弥陀仏と南無妙法蓮華経の両方が刻まれ、のこり三面に津波の詳細や後世への戒めが刻まちゅうがです。この碑が建てられたのは安政2年7月。地震から一年半ちょっと経過しちょります。
高知県内の、あちこちに建てられちゅう地震津波の碑は、津波から3年以上経過して、やっと建てられちょりますきに、この界隈は、土佐よりは復興が早かったでしょうか。
この碑は、平成18年に、大阪市の有形文化財に指定されました。右手には、この碑文を見やすく木の板に転載しており、また、手前の白いボードにはちゃんと現代文に訳してくれちょります。
今朝、この写真を撮りよりましたら、ご近所の方でしょう、おんちゃんが2人やって来て、周辺を掃除したり碑に花を供えたり。慰霊の碑でもあり、近在の皆さんにずうっと大切にされてきたことがうかがわれます。
碑文の内容は興味深いもの。地震の後、津波が襲うてきた様子が書かれ、そして、木津川や道頓堀川を舟が流されて壊れた舟の山ができ、大勢が犠牲になったので、地震が来たら、絶対に舟で逃げたりしょうとしたらいかん、と書かれちょります。1707年の宝永地震津波の際にも、小舟で避難しょうとした人たちが大勢犠牲になったと聞くのに、長い年月の間に忘れられ、同じような被害が出たことを嘆いております。
そして文章の最後を現代文にします。
「津波の勢いは、普通の高潮とは違うということを、今回被災した人々はよくわかっているが、十分心得ておきなさい。犠牲になられた方々のご冥福を祈り、つたない文章であるがここに記録しておくので、心ある人は、時々碑文が読みやすいよう墨を入れ、伝えていってほしい。」
宝永津波の教訓を活かすことができんかった無念が、このような文章を書かせたのでしょうか。そして、近在の皆さんは、この碑文の教えを守って、この写真のように墨を入れ、更に現代文にも訳して、その想いを伝えていこうとしています。
とても大切なことが、ここにあります。