土佐の中世の遺構、大高坂松王丸の時代〔3244〕2012/03/03
2012年3月3日(土)晴れ
暑いくらいの陽気の土曜日。今日から高知の街中では「土佐のおきゃく」が開催されよります。その一環で、高知街ラ・ラ・ラ音楽祭の春バージョン、ラララ春祭りをやりよります。ラララは今日明日やりよりますので、ご近所の方は行ってみてくださいね。
さて、ここは、くみあい興産の駐車場があった場所。この北側に財務局の建物がありましたが、今、取り壊されちょります。向こうに高知城が見えよりますね。ここに、歴史博物館が建設されるそうです。で、埋蔵文化財センターが、その建設工事に合わせて発掘調査をしゆうがです。ここは、江戸時代、山内家の家老の広大なお屋敷がありましたので、その時代の遺物が埋まっちゅうことはわかっちょりました。
江ノ口川と鏡川に挟まれた土地で、追手筋が一番高い部分になり、そっから南北に土地は下り傾斜となっちゅう訳です。このお屋敷は、追手筋に長屋門を持ち、その南に住居の建物、そしてその南が庭になっちょったと思われます。ここは、庭とかになっちょった部分の下。そっから、なんと、中世の遺構が出土してきた、ということですき、大発見。中世ですよ、中世。鎌倉時代から室町時代にかけて。14世紀頃かも知れんということ。
中世の土佐は、どんなになっちょったか不明な部分が多うございます。南北朝の争いの頃、土佐は、それぞれの勢力に別れ、群雄が割拠しちょりました。その代表的な豪族が、土佐南朝方の総大将、大高坂氏。大高坂氏が本拠としたのは、今の高知城のある大高坂山界隈。古代、浦戸湾の底で、中世初期にもまだ湿地帯やったと思われる地域が、ちょっとづつヒトが住めるように土木工事とかが行われるようになってきた時代。
大高坂氏が、ここで勢力を伸ばしよった時代、ヒトが、ここで生活しよった痕跡が初めて見つかったということ。これは、すごいこと。今日、現地説明会があったので、ちくと行ってみました。
右手の方は近世等の遺跡ですけんど、問題の中世の遺構は中央左。二列になった杭がむこうからこちらに並び、左へ直角に曲がっちゅう遺構。どうやら、この杭の部分に粘度を盛って土手とし、水路を人工的につくっちょったものと思われます。想像では、右手の追手筋の方から南進してきた水路がその向こうで左折、こちらへ西進し、手前のところで右折、南進しちゅうと考えられるのであります。
ヒトがいっぱい居る所の前がちょっと深うなっちゅうので、ちょっとしたダムのようになって、そこで水を使う仕事をしよったがかも知れません。いかがでしょうか。こんな風景を見ると、当時の生活の模様が妄想できますね。
高知の街中、たぶん、深く掘り返すと、中世の遺構も出ていっぱい出て来るがかんも知れんと想像するだけで楽しゅうございます。願わくば、せっかくここに歴史博物館をつくるがですき、この遺構をそのまんま保存展示できるような建物にしてもらいたいところ。まあ、センスの問題です。為政者の。