高知の城下町の仕組み、地形の利用〔3245〕2012/03/04
2012年3月4日(日)小雨
今日は日曜日。高知市の追手筋では、延長1.3kmにわたって、このように日曜市が開かれます。高知の城下の街路市の始まりは、17世紀末の元禄の頃と言われます。当時、この界隈は武家屋敷が並ぶエリアですき、市が開かれたがはもっと庶民の暮らすエリア。で、明治になり、太陽暦が導入されてから、今の電車通りのところで毎週日曜日に市が開かれることになった訳です。明治37年、路面電車ができるがに伴うて、日曜市は今の帯屋町に移動、そして戦後の昭和23年から今の場所で開催されるようになった訳です。
ですき、戦前の記憶がある方は、今の帯屋町で開かれよった日曜市を覚えちゅうはずでございますね。
昨日、中世の遺構が発見されたお話をしました。かなり興奮気味に。その場所は、この追手筋を向こうへ行って、高知城のお堀に突き当たる手前の左手。山内の殿様に仕える家老の屋敷跡。発掘現場を見よって、ひとつ、発見感心したことがあります。それは、街のつくり方。
2011年11月17日のにっこりでもご紹介しましたが、江戸の街は、起伏に富んだ武蔵野台地の複雑な地形をうまく活用してつくられちょります。山手では、台地の尾根筋に沿ってメインストリートがつくられ、その道に面して長屋門を置いた屋敷街が形成されていっちょります。一番高い場所が正門ですき、その、門を入ってしゅっとの場所に居住空間などの建物を配置、それから台地が下る地形に合わせて庭、小川、池がつくられていく、というがが典型的な山手の武家屋敷になっちょりました。
高知の城下も、基本的にその思想が生きちょった訳ですな。昨日も書きましたように、鏡川と江ノ口川の間につくられた城下町は、その間の一番海抜が高い場所を中心に形成されました。それは、高知城の正門である追手門からまっすぐ東へ延びる道。この、追手筋。そのメインストリートに面していかめしい長屋門が並び、屋敷は、そっから川の方へ下って行く地形を利用してつくられたがでしょう。江戸の街の考え方とまったくおんなじ。
藩政期初期、全国的に、同じような思想で街が形成されていった、ということがわかりますね。なるほど。
ですきに、この通りは、とてもこんな街路市が並ぶような雰囲気ではなく、おおきな門と土塀に南北から挟まれたいかめしい道やったことでしょう。
さて、そんな藩政期になる前、鎌倉から室町にかけてのこの界隈が、昨日ご紹介した発掘でちょっとづつわかってきました。少なくとも、川の間の一番高い場所界隈で、人々が生活し、文化を育みよったことは確か。豪族大高坂氏に関係する街でしょうか。と、いうことは、現在の堺町の南辺りの小高い砂州の上を本拠としちょったとされる国沢氏の街、にぎわいはどんなになっちょったがかも気になるところ。
昨日のように、大きな公共工事でもないかぎり、そんな深い場所までの発掘調査は行われませんので、貴重な機会ではあります。来年、ホントに残念ながら追手前小学校が廃校になります。その跡地に図書館ができる訳ですが、その際、かなり大規模に発掘調査ができると思います。それこし、中世の遺構がたくさん出て来ることが期待できるようになりました。かなり楽しみ。