雪の福井、由利公正さんの家と龍馬〔3227〕2012/02/15
2012年2月15日(水)福井は小雨
と、いう訳で、今朝は福井。高知の福井ぢゃあのうて、北陸の福井。福井県の福井市。昨日、香川と大阪で仕事を済ませ、夜中に着くサンダーバードでやって来ました。福井は、ご覧のように雪景色。ですが、今朝は、それほど冷え込んじょらず、小雨模様でした。
夜明け前、福井城のお堀端のホテルを出て、市内をたつくって来ました。にっこりひまわりの過去記事を検索してみますと、前回福井にやって来たのは2004年2月17日。同じような季節やったがですね。今年は、前回よりも雪が多いにかありません。
前回は福井城址界隈をたつくった訳ですが、今回は、ちくと違う場所へ行ってみました。まずは、北ノ庄城址。信長が一向一揆を壊滅させた直後、柴田勝家に越前49万石を与え、足羽川と吉野川の合流地点に勝家が築いたお城。秀吉の書状の中に「天守を九層に上げ候」などと書かれちゅうように、とてつもなく巨大なお城やったにかありません。残念ながら秀吉に滅ぼされ、その後、家康の息子、結城秀康がやって来て完全に取り壊し、現在の福井城の位置に新しいお城を築いたので、勝家時代の巨大なお城の様子はハッキリとはわかっちゃあしません。
さて、その北ノ庄城址からちょっと川沿いに行って橋を渡ったところがここ。左手に案内板が見えます。この場所に、幕末、由利公正さんの家があったのでありました。
幕末維新は、実は、越前が大きな役割を果たしちゅうがはメッソ知られちゃあしませんね。龍馬の思想に、越前の方々が与えた影響たるや、すごいものがあります。
まず、文久三年(1863年)、勝海舟さんに言われて、龍馬は越前の松平春嶽さんのところへお金の無心に来ました。ここで。熊本から越前に政治顧問として雇われて来ちょった横井小楠さんに会い、そして、福井藩の財政を見事な手腕で立て直しちょった由利公正さんにも会うて、日本の将来について熱く熱く語ったのでありました。
龍馬の船中八策は、多分に、横井小楠の書いた「国是七条」の内容を踏襲しちょりまして、それがなければ龍馬の新政府に対する考え方も全然違うもんになっちょった可能性が高い訳です。由利公正が関与した、明治政府の五箇条の御誓文が、船中八策の内容に影響を受けちゅうがは当然っちゃあ当然。元をただせば横井小楠ですき。
さて、慶応3年11月15日に、龍馬は京で暗殺される訳ですが、その2週間前、ここ福井をわざわ訪れ、由利公正さんに会うて、長い時間、話をしちょります。得意の船が使えませんきに、テクテク歩いて来た訳ですな。用件は、幕府が倒れた後の新政府の財政をどうしたら良いか、由利公正さんの意見を聞くことやったと思われます。龍馬が暗殺されんかったら、由利は、明治政府の財政責任者になっちょったかも知れません。
朝から夜更けまで、龍馬と由利が話し合うた「たばこ屋旅館」は、あの向こうの橋のもうちょっと向こうの右側。公正さんは、この川の土手を歩いて行ったでしょうか。
この左手をちょっと行くと橋本左内さんの墓所がある左内公園、その向こうに山があり、石段を駈け上ると足羽神社。継体天皇をお祀りしちゅうという、古い由緒あるお宮さん。
越前福井には、歴史が溢れかえっちょりました。