馬場孤蝶さんと蘇鶴温泉〔3223〕2012/02/11
2012年2月11日(土)良いお天気
良いお天気の祝日。冷やいながらも、なんとなく春めいてきた今日この頃。道端には、菜の花が咲き始めた高知県地方です。
こないだうち、寺田寅彦さんと馬場孤蝶さんのことを喋らんといかんなって、色々と調べました。馬場孤蝶さんは、明治2年生まれの文学者。島崎藤村さんと明治学院の同級生で、お互いに影響を受け合いながら、明治ロマン派文学の確立に向けての業績を残した人物。あの、自由民権運動の論客にして理論的指導者、馬場辰猪さんの19歳下の弟ですきに、文学の道を進みながらも、その兄の熱い思いをずうっと胸に抱き続けたことは、その生涯を眺めると、しゅっとわかります。
明治26年2月、学校を出てから高知に戻り、学校の英語の先生をしよった馬場孤蝶の家に、島崎藤村さんがやって来ました。そして、日本の文学の将来について熱く熱く熱く語り合いました。結局、馬場孤蝶さんも上京することになり、「文学界」に合流して、文学者としての道を歩み始めたがは、いままでのにっこりで何度か書いてきました。
さて、そうやって明治26年に上京した馬場孤蝶さん、結局、次に高知へモンて来たがはなんと30年後の大正11年7月。ひまわり乳業が創業された直後ですな。秦村まで足を伸ばしたら、うちの牛乳か山羊乳を飲めたでしょうけんど、そんな形跡はありません。
なんで形跡がわかるかと申しますと、克明に日記をつけちょりまして、それが「帰郷日記」として本になっちゅうきです。これを読むと、当時の高知の街の様子やら交通手段やらがホントによくわかります。それによりますれば、よく使うのが稲荷新地からの巡航船、そして路面電車。長距離は汽車、そして自動車。そう。この時代になると、自動車を雇うたりして移動しちょります。
この時の帰高では、あちこちで講演したり懇談会に出席したり揮毫したりと、なかなか忙しそうです。そして。
大正11年9月7日の日記。
午後馬場信行来訪、源山の書簡五六通を貰う。松山白洋来る。書画の精算残額金八十九円三十五銭落手。午後三時頃老婢を使として土陽新聞社の中島及び帯屋町の前田温知堂へ手紙を持ち行かしむ。四時過ぎ中島及び田中来る。田中は明後日出発の積りなりといふ。夕方三人にて新京橋の岡林へ行く。尾崎市松と妓をつれてくる。おはつを呼ぶ。おはつは先月鏡水にて見し芸者なり。九時過ぎ自動車にて大内温泉の蘇鶴楼といふへ行く。中島、田中、尾崎三人とも帰りて、芸者三人と共に置き去りにせらる。
ここに出て来る「田中」は田中貢太郎さんのこと。新京橋の岡林は、有名な牛肉屋さん。ここですき焼きか何かを食べたと思われます。そして、夜の9時から自動車を飛ばして行った先が大内温泉の蘇鶴楼。田中さん達に置き去りにされ、芸者三人で残っちょります。
さて、そんな訳で、今日、走って行ったのは、久々に蘇鶴温泉。
ここは、古い古い歴史をもつ温泉ですが、今は、一軒だけ営業しゆう、ひなびたローカルな温泉。ひまわり太郎、この温泉、結構好きです。写真の、道路の右手向こうにちょっと見えゆうのが温泉の建物。周辺は、このように、もう、春。
今は静かなローカルな、地元の皆さんに親しまれゆう温泉ですが、馬場孤蝶さんが行ったところは「蘇鶴楼」というくらいですきに、芸者遊びができたような賑やかな場所やったがでしょうか。高知から自動車で、泊まりがけで遊びに行っちょりますき、なかなか豪勢。
そんな昔の風情を想像しながら、ゆっくりのったりまったり静かな静かな温泉につかって帰ってきました。