青柳橋東詰、新聞の葬式、自由民権運動の魅力的な人物たち〔3212〕2012/01/31
2012年1月31日(火)快晴!
快晴の朝。結構冷え込んじょります。ここは今朝、4時過ぎの青柳橋東詰。五台山の登り口の所。ここに立つ、この案内板は、このにっこりひまわりを書き始めたばっかしの2003年4月30日にもご紹介しました。「新聞の葬式」を伝える案内板。
前回も書きましたが、高知で自由民権運動活発なりし頃の事件です。明治14年、板垣退助を中心に自由党が結成され、高知では、その運動の機関誌として「高知新聞」が発刊されました。しかし、政府を攻撃する論調が弾圧の対象となり、何度も「発行停止」に、そして、明治15年7月14日、遂に「発行禁止」ということになったのでありました。そこで、翌々日の7月16日、身代わりに発行された「高知自由新聞」に、この案内板の右上にある死亡広告が出された訳です。
我ガ愛友ナル高知新聞ハ 一昨十四日午後九時絶命ニ付 本日午後一時弔式執行仕候間 愛顧ノ諸君ハ来会アランコトヲ乞
七月十六日 高知新聞ノ愛友 高知自由新聞社
この死亡広告の通り新聞葬が行われ、本町の新聞社からここ五台山まで葬列が組まれて、参列者はなんと5000人。五台山で新聞は火葬にされました。
その高知自由新聞も7月21日に発行禁止となって、27日に再び執り行われた新聞葬には10000人が参列したということ。
民衆や若い力が盛り上がるとき、こういった酢の効いた行動に出るのは、いかにも高知らしゅうてエイですね。これです、これ。これがセンスというモンやと思います。
当時、中央で発刊されちょった自由新聞の主筆は、自由民権運動の論客、馬場辰猪さん。馬場孤蝶さんの、19歳違いのお兄さん。植木枝盛さんとか、馬場辰猪さんとか、鋭い論客であると同時に、こういったセンスに満ちあふれた魅力的な人物が、明治初期にはたくさん居りました。