寺田寅彦先生邸址、と刻まれた石〔3198〕2012/01/17
2012年1月17日(火)快晴!
今日は高知。昨日の夜の汽車でモンて来ました。松江で、宝暦年間創業、もう250年になるという老舗の和菓子屋さん高見一力堂さんで、歴史あるお菓子を買うて帰ってきました。その現在のご主人は、大学の一年先輩。帰ってきて食べましたが、おいしかったです。
松江城の周囲には、古い武家屋敷がそのまま並んで、それはそれは風情のあるたたずまい。高知も、江ノ口川北岸の一角だけ、古い武家屋敷が残されちょります。ここは高知城の真北の川沿い。寺田寅彦さんの邸跡。明治13年、寅彦さんの父、利正さんが購入した家ですが、戦災で焼け、離れだけが残って現在記念館になっちょります。この左手には、こないだまで法務局がありましたが現在は建物が取り壊され、更地。昔は、その場所まで、全部、寺田家やったようです。法務局がないなって、昔の雰囲気をイメージしやすうなりました。
ここで、寺田寅彦さんは少年の多感な時期を過ごします。また、学生になっても東大の先生になっても、しょっちゅう帰省してきました。寅彦さんが亡くなる一年前の昭和9年、「庭の追想」という随筆で、若くして亡くなった幸せ薄い一度目の妻、夏子さんの想いでとともに、その家の庭のことを書いちょります。寅彦さんらしい、はかなく、かなしく、美しい文章。それは、その庭を描いた藤田太郎画伯の「秋庭」という絵を見て、30年以上も昔を思い出して書いたもの。
このただ一枚の飛び石の面にだけでも、ほとんど数え切れない喜怒哀楽さまざまの追憶の場面を映し出すことができる。夏休みに帰省している間は毎晩のように座敷の縁側に腰をかけて、蒸し暑い夕なぎの夜の茂みから襲って来る蚊を団扇で追いながら、両親を相手にいろいろの話をした。そのときにいつも眼の前の夕闇の庭のまん中に薄白く見えていたのがこの長方形の花崗岩の飛び石であった。
ことにありありと思い出されるのは同じ縁側に黙って腰をかけていた、当時はまだうら若い浴衣姿の、今はとうの昔になき妻のことどもである。
15歳、満で言うたら14歳で20歳の寅彦と結婚し、20歳で、幼い娘と寅彦を残して結核で世を去った妻、夏子。その、若い妻を幸せにできずに亡くしたことも、寅彦文学のあの独特の寂しさ、はかなさに影響を与えちゅうがは間違いありません。
寅彦を愛し、寅彦研究で有名な山田一郎さんの著書には、上の文章にでてくる長方形の飛び石のことを、もう一つのエピソードとともにこのように書いちょります。「寺田家の庭に立つと、私はいつも、この二つの夏子の像を思う。花崗岩の長方形の飛び石は今は寺田寅彦先生邸址の碑となって寺田寅彦記念館入り口に建っている。真に寅彦を理解した人たちならこんな心ないことをしないはずだ」
ヒトの想いを伝えていく、ということの難しさ。大切さ。