御手洗遺跡に弥生時代の竪穴式住居が〔3199〕2012/01/18
2012年1月18日(水)晴れ!
こないだ、11月20日のにっこりで、高知市神田の御手洗遺跡の発掘現場をご紹介しました。鎌倉時代から室町時代の、住居などの遺構と土器。実は、その発掘関係者の方から、あの後、重大な事実を知らされました。あれから発掘を進めたところ、あの中世の遺跡の下から、弥生時代の竪穴式住居跡がでてきた、ということ。これにはビックリ。
しかし、その方から昨日緊急連絡があり、道路工事が進みよりまして、年度内にやっちょかんといかん工事があるとかで、明日にはもう埋められてしまうということ。こりゃあいかん。と、いう訳で、今朝、慌てて撮影に行って来ました。
11月20日の写真の左端辺りの真下が、この竪穴式住居跡。なるほど。高知市内では珍しい弥生遺跡が、こんなところに眠っちょったとは。
高知市市内の弥生遺跡と言えば、2008年11月24日のにっこりでご紹介した柳田遺跡。ここ御手洗から西へ約1km。近いです。鏡川は、昔、鏡村から南進してきて朝倉城の東側を更に南進、東へ流れを変え、今の神田川の流路に似いたところを流れよったにかありません。ですきに、柳田遺跡は古鏡川の北岸、ここ御手洗遺跡は南岸、ということで、川を挟んで向き合うちょったがかも知れません。同時期に。
柳田遺跡は、弥生中期前半に、突如として姿を消します。たぶん、鏡川の氾濫で壊滅的被害を受け、住民達はよそへ移住していったきやと思われます。その移住先は、鏡川によって肥沃な土地になり、しかも洪水や敵からしゅっと逃げれる山裾の、ここ御手洗遺跡やったがかも知れません。
こっから西へ5kmくらい行きますと、昨年2011年2月20日にご紹介したバーガ森北斜面遺跡。弥生中期の、四国最大規模の高地性集落遺跡。
弥生時代、朝倉から枝川にかけて、けっこうたくさんの集落があり、ヒトもいっぱい住みよったがかも知れません。
明日には埋められてしまう御手洗遺跡。ここには、弥生時代に集落があり、中世にも有力者が住みよりました。ずうっとずうっと長い間、ヒトが住み続けてきた、古い古い場所。そして、弥生時代、朝倉から枝川にかけて、かなり大きな集団がかなりの規模で暮らしよったことを妄想させてくれる場所。東の田村、西の朝倉、というくらいの勢力やったかも知れませんな。妄想が広がります。