手結の恩人は野中兼山、一木権兵衛、そして命山〔3178〕2011/12/28
2011年12月28日(水)快晴!
よう晴れちょります。今朝は氷点下までは下がっちょらんでしょう。日中も、おだやかなお天気になりそうです。
今朝は手結方面に行っちょりました。夜須で事故があったらしゅうて、道路は大渋滞。年末、ただでさえ車が多い時期、なかなかコタやかされました。
ここは手結港。明暦元年(1655年)、かの、野中兼山さんによって開削された港。日本で初めての「掘込み港湾」というががすごいがやそうです。砂地を掘って、開削した港湾。その工法が日本で本格的に導入され始めたがは戦後になってからやそうですき、兼山さん、恐るべし。
ここでも、室津港開削とかでも活躍した一木権兵衛さんが大活躍しちゅうようです。港浚渫の専門家。野中兼山さんの大規模港湾工事には、一木権兵衛さん。最期は、室津港入り口でまぎっちょった巨大な岩を取り除くのに願をかけ、成功した後人柱となった一木権兵衛さん。すごいヒトが居ったもんです。
で、この手結港の内港、平成になってから、野中兼山さんがつくったように復元工事が行われたとか。ですきに、なかなか風情のある港になっちょります。
その風情ある港の入り口に、時間制で車が通ったり船が通ったりできるようにした可動橋があります。う~ん、せっかくの風情が・・・。もうちょっと、外観、なんとかならんかったがでしょうか。
この手結も、過去、津波に襲われてきました。
港が整備され、高知の城下と大阪を結ぶ航路の中継港として栄えた手結ですが、宝永の地震津波(1707年)で甚大な被害を受けました。繁栄がすごかっただけに、そのショックも大きく、復興するがにはかなりの年月を要しちょります。
安政の南海地震津波(1857年)でも大変な被害がでました。後世への戒めに、その模様を刻んだ石碑が、街中近くの観音山という小さな山の上に立っちょります。今年、3月15日のにっこりで、土佐弁読み下しをご紹介しちょります。
そこにも書きました。その碑文には、観音山へ逃げた数百人は助かったので、観音山を命の山として永く伝えていく、ということが刻まれちょります。
ここにも命山がありました。