嶽洋社址と河野敏鎌と江藤新平〔316〕2004/02/26
2004年2月26日(木)晴れ
今朝も鏡川を遡行、柳原橋から水通町を抜け、上町の奉公人町界隈を走って来ました。龍馬など、たくさんの志士を輩出した地域ですね。
にっこり[273]でご紹介した「婦人参政権発祥の地」の碑がある高知市立第四小学校のところへ来ちょります。ここには、その記念碑だけではなく、ご覧の様に2つの記念碑が建立されちょります。
向かって左には「嶽洋社址」ときざまれちゅうがが見えますか?「嶽洋社(がくようしゃ)」は、ご存知立志社の流れを汲む自由民権運動結社として明治11年に設立され、初代社長は近藤正英(こんどうまさふさ)。社員は、坂本龍馬の甥で自由民権運動活動家として有名な坂本南海男など、500名を擁しておったそうです。
その右の碑は、「河野敏鎌(こうのとがま)」の生家があったことを伝える記念碑です。河野敏鎌は維新の志士として活躍、坂本龍馬脱藩の際には朝倉村まで見送っています。武市半平太の土佐勤王党に参加しますが、「勤王党の獄」で永牢処分になり、維新後出所、明治政府で活躍することになります。農商務大臣、司法大臣、内務大臣などを歴任し、52歳の若さで亡くなっておりますね。
河野敏鎌が有名なのは、佐賀の江藤新平との関係でございます。維新のあと、後藤象二郎によって江藤新平を紹介され、その縁で新政府で働くことになった訳ですが、佐賀の乱で江藤新平が高知で捕まると、政府の役人だった河野が江藤新平を裁く立場になってしまったのです。
ご存知に様に江藤新平は極刑。歴史の皮肉なドラマとして語り継がれております。