夜明け前の前浜砲台跡〔3155〕2011/12/05
2011年12月5日(月)快晴!
よう晴れちょります。今朝は高知。昨日は、米子皆生温泉RUNを楽しん だ後、車でモンて来ました。途中、こないだチボリ公園跡地にオープンしたばっかしの、倉敷のアウトレットモールを見てみよう、ということで寄っちょりまし たが、いやいやすごい人出でございました。都市部の駅前、広大な駐車場、ショッピングモールとアウトレットの複合、というのは、取り敢えず現在は無敵です な、こりゃ。山陰や四国ナンバーの車も多く、中四国全域から集まって来よります。
さて、ここは夜明け前の南国市前浜。こないだご紹介した避難タ ワーからだいぶ西へ行った、浜通り。ここは伊都多神社さんの真南ですき、この界隈の皆さんの避難場所は伊都多さん。海抜が13mくらいとのことでづき、こ ないだの避難タワーよりちょっと高い避難場所。前浜、下島、久枝界隈で、最も海抜の高い陸地が、伊都多さんということのようです。13m以上の津波は、現 在の所想定されちょりません。今後の課題でしょう。
さて、この浜通りは、海岸の堤防からちょっと北側を東西に走る道。昔ながらの浜辺の家々が並び ます。その道沿いに、この史蹟があります。この左手は、前浜砲台跡。ペリーさんが浦賀にやって来た翌年に、慌てて構築された砲台の跡。こないだご紹介した 江戸防衛のお台場が構築されたがも同じ時期ですき、日本国中が大騒ぎ大慌てやったことがわかります。
江戸のお台場とかに比べますとかなり規模は小 そうなりますけんど、ここには大砲が3基、浪士、浪人、募兵が総勢45名配備されちょったそうです。そこに立っちゅう説明板によりますと、この砲台築構の 責任者に命ぜられたがは下田村の郷士、大原里勝さん。「前浜台場係」「海防小頭」に任ぜられました。ここに設置された大砲は「ホイッスル砲」。日本語で書 くと榴弾砲。中に火薬が詰められた砲弾を打ち出す、短い砲身の大砲をホイッスル砲と呼ぶそうです。
ちなみに、上に、3基の大砲と書きましたが、その根拠は「保古飛呂比」。幕末土佐藩の重役で明治政府の高官を歴任した佐佐木高行伯爵の日記。が、この説明板には数門と書かれちょり、正確な所はわかりません。
ちょちらにしましても、この、久枝、前浜から十市にかけての海は、海防の重要な場所とされました。それは、太平洋戦争終末期も同じで、色んな防御施設が、この海岸に米軍が上陸してくることを想定して構築されちょりますね。
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