明治37年11月26日、旅順第三次総攻撃開始〔3113〕2011/10/24
2011年10月24日(月)晴れ!
晴れ渡った秋空。心地良い風が吹きます。暦では「霜降(そうこう」だそうで、秋の気配が深まり、朝に霜が見られるようになる日やそうですけんど、高知の平野部ではそんな気配もありません。爽やかに心地良い気候です。
こ の写真は、会社の前から南向いて撮影したもの。これをまっすぐ行くと高知空港。このしゅっと向こうの道路沿いに、ちょっと立派なお墓があります。側面には 文字がぎっしり。文字がぎっしり書かれた墓石の場合は軍人さんであることが多い、てなことを以前書きましたが、ここのお墓もそう。読んでみますと、日露戦 争で戦死された方のお墓。
日露戦争で日本陸軍は、乃木大将に率いられて旅順を攻略しました。ご存知のとおり、ロシアは旅順を難攻不落の大要塞に仕立て上げちょったので、夥しい犠牲者を出しながらの戦でした。
た だ、あまりにも「坂の上の雲」の印象が強く、乃木大将は無能で、無為無策のうちに犠牲者を多くした、ということが、多くの日本人の間で通説になっちょりま す。しかし。色んな研究が進み、この司馬史観は、かなり偏ったものであることが判ってきちょります。今では、あの、兵力が拮抗しちゅうなかで、強固に築か れた要塞を陥とした乃木大将は、かなりの指導力をもつ戦略家であったのではないか、と言われよります。
モノゴトには、色んな側面、見方があります。一方的な知識で、それがすべてと決めつけることの危うさ。気をつけんといけません。
さ て、そのお墓の文章に戻ります。旅順攻撃に参加した日本軍は、第一師団、第九師団、第十一師団、それに後で合流してきた第七師団。8月の第一次総攻撃、 10月の第二次総攻撃のあと、11月26日から大第三次総攻撃が始まりました。そのお墓の方は、11月26日に腹部に敵弾を受けて戦死されちょります。
高知、朝倉の陸軍歩兵第44連隊は、第十一師団に属し、東鶏冠山の堡塁を攻めました。悪戦苦闘し、この攻撃では占領できず。その後、乃木大将が203高地へ攻撃目標を変更し、猛攻の末占領。そして12月18日に、やっと、東鶏冠山の堡塁は陥落したのでありました。
色んな場所に、色んな軍人さんのお墓があります。その刻まれた文章を読むと、「歴史」で習うた場面が、圧倒的な迫力で現れてきます。