物部川の氾濫と弥生遺跡と台地の開発〔2995〕2011/06/28
2011年6月28日(火)晴れ!
昨日は土讃線特急、阿波池田と高知の間が一日中運休やったようです。かなりガイに降ったにかありません。坂出駅前の駐車場に車を停めて本州へ行っちょったひまわり太郎、夜、9時過ぎに坂出へモンて来まして、眠い目をこすりながら深夜高知着。結構コタヤカサレました。
高松方面に向かう国道32号線は、まだ、徳島との県境界隈で通行止めになっちょります。これっぱあ降ったら今年は水不足も心配ないようです。
ここは今朝の物部川。会社の東側の土手。向こうに三宝山が見えます。かなり増水しちゅう物部川。左手の、土手沿いに向こうから流れてくる水路や、右上の、向こうの土手沿いに流れていきゆう流れは、普段はありません。いつもの本流は、写真中央部からZ型にきゆう流れ。
物部川は、太古の昔から人々に恵みと脅威を与えて来た流れ。昔の本流は、もっと西にあったそうで、幾筋もの分流が太平洋に流れ込み、デルタ地帯を形成しちょりました。その、河口近くの自然堤防上に形成されたがが、田村の、南四国最大級弥生集落。稲作などに適した水の流れと土壌との条件が揃うちょった訳です。
しかし、そこは、物部川の氾濫という脅威がありました。たぶん、何度も何度も、氾濫によって壊滅的に流されたりしたでしょう。が、人々は、そこに住み続けました。
弥生時代が終わり、古墳時代になると、周縁部に集落が拡散していった、というお話を書きました。野市や長岡。そこは河岸段丘によって台地が形成され、氾濫による心配が少ないエリア。しかし、台地の上は、水の便が良くない。弥生期には、そこで農業をすることはなかなか難しかったがでしょうか。技術が進歩し、台地の上でも稲作ができるようになってきて、物部川の氾濫や南海地震津波の心配がないエリアに、集落が拡散していった、というストーリーは説得力があります。
しかしそれでも、現在の野市は、耕作しにくい荒れ野であったことには変わりませんでした。野市が沃野になるには、藩政期の野中兼山さんの登場を待たんといかんかった訳です。