上野公園は何故できたか〔2976〕2011/06/09
2011年6月9日(木)東京は晴れちゅうきさあ
てな訳で、写真をご覧頂きますればわかります通り、今朝は東京上野。昨日のお昼の飛行機でやって来ました。上野、不忍池に面したホテルに泊まっちょりましたので、今朝は上野の森界隈から湯島界隈をたつくってきました。
早朝の上野公園は、歩いたり走ったりする善男善女で賑わいます。そして上野公園といえば西郷さん。この銅像を見ると、東京に住みよった学生時代の眼鏡紛失事件を思い出します。
あれは、高知へ帰省する前日やったと記憶しちょります。何らかの理由で、朝の新幹線に乗るために、上野公園で一夜を過ごすことになりました。当時も、夜の上野公園内のベンチは、お家が無くて公園で過ごす皆さんなどが寝転がっちょりまして、なかなか空きがありませんでした。やっと探した西郷さん近くのベンチで寝転がり、貴重品は身につけ、荷物は身体に縛り付けて寝ました。眼鏡だけは頭の近くにそのまま置いちょりました。そして、朝、目が覚めると、その眼鏡が無いなっちょったのであります。他の貴重品など盗られたものはなかったので幸いでしたが、眼鏡無しの非常に辛い状況で高知までモンたことを、この西郷さんの銅像を見ると思い出すのでありました。
さて、西郷さんも、西南戦争を引き起こした「賊軍」。しかし、慕う皆さんによって明治30年にこの像ができました。西郷さんの左、おんちゃんが座っちゅうベンチの向こうには、彰義隊の墓。戊辰戦争の際、この上野の山に立てこもり、薩長を主体とする新政府軍に抵抗した彰義隊。明治になってからの薩長史観では「賊軍」ですきに冷遇されました。上野戦争の翌年、寛永寺子院の住職がこっそりと隊士を弔い、小さな墓石を埋めました。明治14年になって元隊士により、現在の立派な墓石が建てられ、埋められちょった小さな墓石も、その正面に置かれる事になりました。しかし、明治政府を憚って「彰義隊」の文字はなく、山岡鉄舟さんの筆による「戦死之墓」という文字のみ刻まれちょります。
この上野には、明治政府に逆らうひとたちの想いがこもっちょりますね。
元々、上野の山は、北から延びてきちゅう上野台地の先っぽ。西に東大のある本郷台地があり、その台地と台地の間に不忍池があります。無縁坂は本郷台地へ上っていく坂道。上野台地の上に、藩政期初期、寛永寺がつくられました。広大なお寺さんで、徳川家によって大切にされてきましたが、彰義隊の上野戦争で焼失。その後、新政府は、病院とかの公共施設エリアにしょうとしよりました。しかし、オランダ人医師のボードワン博士が、ここは公園にせんといかん、と政府に進言、取り入れられて、都心近くに、こんなにも素晴らしい、文化の香りあふれる緑豊かな公園が出現することになったのでありました。見事な先見の明。
大きい視野で、未来を見通す力。上に立つ者に求められる資質です。