岡豊の市町〔2924〕2011/04/18
2011年4月18日(月)降ったり曇ったり
昨日は、長宗我部氏の本拠、岡豊山の望櫓から、8周年記念のにっこりをお届けしました。あそこからですと、岡豊山を取り囲むように、中島や吉田など、重臣の館が点在し、一体となって守りを固めちょったことがよく解ります。ヒトは石垣ヒトは城。家臣団とひとつになり、難攻不落の岡豊城が成り立っちょったことがわかるがです。
長宗我部氏の全盛時代、ここには城下町が形成されちょりました。商人や職人がたくさん住み、市場が開かれた、いわゆる都市。写真は、その都市の痕跡。東側から岡豊山を眺めました。標高 97mの岡豊山は、城下町を形成し、しかも攻めて来る敵から防御するがに、ちょうど良い山やったでしょう。そしてこの田んぼ。
真ん中の道を挟んで、両脇に、細長い田んぼが並んじょります。これがどうやら、当時の街の形で、間口が狭く奥行きが深い当時の町家の形状が、今の田んぼの形状に残されちゅうがにかありません。あの、山の上の望櫓から眺めると、道を挟んだ街割りの形がよくわかります。ここは「市町」と呼ばれ、城下町で一番賑やかやった場所でしょう。
1588年、元親さんは、今の高知城が立つ大高坂山に、お城を築いて引っ越しました。あそこを本拠にしょうとした訳です。その際、ここにあった町を、ヒトもなにも、全部、新しい城の近くに移設したがです。今の新堀小学校とその西側の界隈は、今でも「新市町」という名前が残っちょりますが、そこが、こっから移設された新しい市町でした。
それから藩政期になり、高知の城下は整備拡大され、ここは静かな農村に戻っていった訳です。
こっから数百メートル東には国分寺があります。国分川と国分寺の間には、マチ、マチガシラ、イチバ、ヒガシフルイチ、ニシフルイチ、などのホノギ名が残っちょります。古代、ここは賑やかな都市でした。中世になり、長宗我部氏が岡豊で勢力を延ばすにつれ、同じような都市がしゅっと隣の岡豊山の下に形成されていった様が想像できます。
その都市も、今はこのような静かな田園風景。町も、風景も、時代とともにどんどんと変化していきます。変化、変動の微妙なバランスの中で、我々は生活していきゆう訳です。儚いですが、ひとつひとつ、着実に、できることをやって前進していくしかないのが人間ながでしょう。