岡山城、中の段、御殿の間取り〔2925〕2011/04/19
2011年4月19日(火)晴れ
今朝は岡山。昨日、山陰まで行った後、岡山までモんてきて宿泊。岡山城界隈をたつくってきました。
岡山城は、戦国末期、宇喜多秀家さんが築城した名城。昨日一昨日ご紹介した岡豊城は、中世の城から近世の城へ移行する時期のものでしたが、この岡山城は、立派な石垣作りの近世の城。中国地方で初めて、こんなでかいのができました。宇喜多秀家は秀吉の覚えめでたかったがですが、この城が完成した3年後、関ヶ原で破れてしまいました。関ヶ原後、ここの主になったがが、あの小早川秀秋くん。
関ヶ原では、西軍につくと見せかけて重要局面で家康に寝返り、関ヶ原の勝敗を決することになった武将。どうしょうか逡巡しよったところに、家康から催促の砲弾が打ち込まれ、慌てて寝返ったという話は有名。なんとなく武将の威厳に欠け、裏切り者のイメージが強いので、現在の岡山城址でも秀秋くんはメッソ華々ちゅうに取り上げられちゃあしませんね。
本段東側に、宇喜多秀家が築いた石垣と、それを覆うように秀秋くんが築いた石垣があります。そのご紹介パネルには、宇喜多秀家の石垣は立派じゃが、秀秋のがは石も丸うて小そうて粗雑である、てな書き方をされちょります。岡山での秀秋くんの評価がなんとなくわかりますよね。なんとなくツイてない秀秋くんが2年後に急死、お家断絶になって、池田氏が殿様になりました。関ヶ原の立役者やのに、家康さんも、秀秋くんをちょっとないがしろにしちょったようです。
ここは、中の段。豪壮な天守閣は、戦争で焼けて、再建されたもの。この中の段には、大きな御殿があって、殿様が執務したり重役が仕事したりしよりました。高知城で言えば二ノ丸にあたります。
ここが気が利いちゅうがは、ご覧のように、御殿の間取りが体感できるようにしちゅうこと。豪壮さもよくわかりますし、当時の様子が身をもって感じることができるがです。この左手には築山と池があるがですが、その前に、小さな茶室があったことも、これでわかります。ホントに小さな茶室。当時の侘び寂び風流がわたくれはありませんか。
これはアイディアですね。高知城にも、こんなががあったらエイと思いました。昨日一昨日の岡豊城もそうですが、歴史を学ぶということは、そのときの人たちの立場になってみて、身を置き換えて妄想してみる、ということやと思います。
秀秋くんは、こんな大きな城が与えられたものの、ここでの2年間、どんな気持ちで過ごしよったことでしょう。色々と想像できます。