西武跡地の鉄骨はどんどん立ち上がります〔2845〕2011/01/29
2011年1月29日(土)良いお天気
昨日ご紹介したはりまや橋交差点の少し東、デンテツターミナルビル前電停から、西向いてはりまや橋交差点方面を撮影してみました。今朝の夜明け前。左手の鉄骨が、西武跡地に建てられゆう建物。
手元に、寛政4年(1792年)の、お城下の町屋図があります。その当時は、この界隈は郭中の東側の下町で、商人、職人などが住む賑やかなエリアでした。そのしゅっと右手の、堀川に架かるはりまや橋界隈には豪商が軒を並べ、浦戸町は、水運の表玄関として栄えちょりました。交差点の南西角には、現在は四国銀行本店があります。
その辺りには、八百屋さんの名前がたくさん見えますね。ですきに八百屋町。そこをよく見てみると、田村屋という名前も見えます。豪商田村屋。
はりまや橋は、元々、藩政期初期の豪商、播磨屋と櫃屋の間に架けられた私橋やったがはご承知の通り。寛政の時代になると、播磨屋さんも櫃屋さんも、その名前は見えません。田村屋さんは、八百屋町で砂糖問屋として財を為し、川崎財閥として明治大正昭和を駆け抜け、現在も高知では重きをなしちょります。旧制土佐中学、現在の土佐高校を設立したのも川崎家。すごいもんです。
この右手、堀川の北側が種崎町。今のはりまや橋商店街、我々には中種として馴染みのある通りは、寛政の時代は「鰯町」という名前になっちょりますな。その東が東種崎町で、北側に北種崎町がありますきに、鰯町は、中種崎町やったがでしょう。堀川が横を流れちゅうこともあり、物資の運搬に便利で、なかなか栄えた街やったにかありません。
種崎町は、明治大正昭和と、たぶん高知で一番繁華な場所のひとつであり続けてきました。戦後、復興していくなかで、街の中心が帯屋町の方へ移っていき、お街の中心ではなくなってきました。が、近年、中種(はりまや橋商店街)の北側界隈にお洒落なお店や素敵な居酒屋さんなどができてきて、少なくとも夜のヒトの流れはちょっと戻ってきた感があります。
これから、街はどんなに変わっていくのでありましょうか。