安政地震碑、遍路道、善心、善根〔2837〕2011/01/21
2011年1月21日(金)晴れ!
ここはいつもの上岡八幡宮。参道入り口。左の木の左手に、石造りの細長い標柱が見えます。あれが、明治15年に地元の嶋内武金さんによって建てられた安政地震の碑。ビッシリギッチリご紹介してきました。裏面には、津波がここまでやってきたことが刻まれちょります。この上岡山から南東方向に、河岸段丘の段差が続いちょります。左端に倉庫の屋根が見えゆうように、段丘の下は、段丘の上より数メートル下がっちょりますので、津波は、その、段丘の下になっちゅう平野を洗い流した、ということが想像できます。
つまり、次ぎにやってくる南海地震でも、津波は段丘より下の平野を覆い尽くす可能性がある訳で、そのことはキチンと予想して、対策をたてちょかんといかんということですね。
ところで、一昨日、宇佐の安政地震碑をご紹介しました。で、地震碑を立てる理由を、真覚寺住職、静照さんの日記から書き出しちょります。実は、日記には、もうひとつ理由が書かれちゅうがです。しかし手元の資料は、その三番目の理由を書き始めちゅうところでちょんぎれちょりまして、ご紹介できませんでした。そこで。昨日の夜、図書館で調べてきました。図書館は便利です。
それで判った三番目の理由は次の通り。あの場所が四国遍路の通り道で、お遍路さん達は、その碑面の名号を見て、真言や念仏を称えてくれるだろう。そして、お遍路さんぢゃあ無うても、心あるヒトは手を合わせるだろう。それが来世の縁となり、ヒトに善心を生じさせ、善い報いを招くことになるだろう、というお坊さんらしい心遣いです。
そう。あの場所は遍路道やったがです。第35番札所「清瀧寺」から第36番札所「青龍寺」に向かう遍路道。そう言えば、元横綱朝青龍は、宇佐の近くの明徳義塾高校相撲部出身で、青龍寺の石段でトレーニングしたりしよったそうです。で、あの四股名は、青龍寺からきちゅう、という話は、高知の皆さんはご存じですよね。
さて、真覚寺日記を読みますと、あの法要の前日、安政5年6月14日に、「萩谷口へ後来ノ為ニとて石碑を建テ 正面ニ六字名号を書キ 脇ニハ大変ノ時ノ模様を記せる碑昨日出来・・」と書かれちょりますので、あの碑が6月13日に完成しちょったことが判ります。こんなのを読むと、臨場感ありますよね。
ところで、この写真を見よって思うたがですが、狛犬の後ろ姿、結構可愛いですな。