香我美中学校、2100年前の稲作〔2836〕2011/01/20
2011年1月20日(木)晴れ!
まっこと早いもんで、もう1月も20日になりました。こないだお正月やったですにね。
今年1月9日の日曜日、「期せずして往復になってしもうた千舞温泉RUN」をしました。にっこりに書いた通りです。で、その際に通りかかったのがここ、香我美中学校。今朝は車でちくと寄ってみました。朝7:20くらいですが、グランドでは、クラブ活動の中学生達が走りよりました。感心感心。冬場の走り込みが何と言うたち重要ですきんねえ。
そのグランドの南東隅に、このような標柱が立っちょります。「下分遠崎遺跡」と刻まれちゅうがが見えますですろうか。
このにっこりでは、南四国を代表する弥生遺跡、田村遺跡をビッシリご紹介してきました。今の空港の界隈の、物部川自然堤防上に広がる、水田や竪穴式住居などの遺跡。
その田村遺跡を母村として、太平洋岸の平野を中心に、いくつかの村が形成されました。ここ、下分遠崎遺跡も、そのひとつと言われちょります。「土佐の登呂遺跡」と言われる下分遠崎遺跡は、弥生前期後半から中期前半のものとされちょります。それ以後の遺跡がみつからんがは、香宗川の大氾濫で、ここに住むがを諦めたことによるみたいです。
この遺跡からは、田村でも見つからんかった木製農具とかがどっしこ見つかりました。今の農具と、基本的にかわらん構造の農具類。そして発掘され分析されたイネは熱帯ジャポニカ種やったそうで、既に温帯ジャポニカが栽培されゆう地帯に後から熱帯ジャポニカが入ることはメッソ考えられんということで、土佐の稲作はひょっとしたら黒潮に乗って南の方角からやって来たがかも知れません。う~ん、ロマンですな。
あの体育館工事の際に、かなりの遺跡が発掘されたということらしいです。中学校ということを考えると、子ども達の教材に使えるように、いつでも見れるように発掘保存ができたらエイですにね。ナマが訴えかけてくる真実は、何物にも増して説得力がありますきに。